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第84話「介護とは何か」(あとがきにかえて) [お見送り期]

2017年初春

父の介護生活を綴ったブログ「おやおや介護絵日記」は
2010年3月に父が倒れてから、2017年1月の納骨の儀まで
およそ7年間に渡る、長い記録になりました。

その間、私たち家族の生活は「父と介護」が中心でしたが
それだけではもちろんなく、仕事や、趣味や、交友関係…など
色々な物事が、並行して行われていた日々でした。

そんな日々の中で感じたのは
「介護と言うのは、私の人生の中の一つの通過点に過ぎない」
と言う事でした。
介護はそれ自体が重く大変なものです。
精神的にも、肉体的にも、金銭や時間的にも
のしかかってくる負荷は大きい。
その上、人の命に関わる事でもあります。

なのでさらりと「通過点」と言い切れるほど、軽いものでは
決してないのですが、それでもどんなに影響力が大きくても
例えば「彗星の衝突みたいに、ある日突然現れて
周囲の人々の人生を激変させてしまう程の、恐ろしい災い」
と言う類ではありません。

確かに介護をしている最中は、先が見えなかった不安もあり
「なぜ私が介護を…」と、たびたび重く捉えがちでしたが
過ぎてみると「きっとこの時期、この行動(介護)をする事が
私がやらなくてはいけない、修行みたいなものだったんだろう」と
割とさっぱり思えるようになりました。

一つの修行(カリキュラム)が終わったら、その次は
また新しい流れが来る。
そしてまた、それを乗り越える為に頑張っていく。
こうした事を繰り返して、私はきっと自分の人生を
作りあげて行くんだろうと思います。
そう捉えた時、介護は一つの通過点に過ぎなかったように
思えたのです

ただ、時には乗り越える事が困難な程
重くて辛い修行でもありました。
その中で生まれたのが、このブログです。
モチベーションを上げるために、外とのつながりを保つために
何とか介護を乗り越えるために、綴っていたブログです。
そしてこのブログを付け始めてからは、いつも前向きな発想を
心がけてきました。
それがきっと、悔いなく父を見送る事が出来た結果に
繋がったと思います

介護ブログはその間、本の形になって出版されたり
テレビで紹介して頂けたり、イラストの原画展を開催するなどして
当初の想像よりも、はるかに多くの方々に知って
頂く事が出来ました。
ブログは現時点(2017年2月)で、累計12万アクセスを超えました。
沢山の方々の励ましのお言葉や、さりげない応援も、
父を始め私たち家族を支える大きな力になりました。
この場を借りて、御礼申し上げます。


84介護って何?.jpg

ところで全てが終わった後、改めて振り返って
「介護って一体何だったんだろう」と思う時があります。
いつも後ろを振り返らず、前だけを見て来たつもりですが
後悔もありました。

最後に療養型の病院に入れた事も、少し後悔していました。
家に帰れず可哀想だったんじゃないか、とか
結果として死に目にも会えなかったじゃないか、とか。
あとはもっと優しくしてあげれば良かったとか。
でも父が亡くなった後、透析病院とのやり取りが記録された
ノートを見つけ出して読んでみると、もうすでに
療養型病院に入れる半年ぐらい前から、父の体のバランスは
崩れ始めていて、自宅で看られる限界に達していた事を
改めて知りました。
病院に居たからこそ、ここまで長く生きられたんだと確信して
後悔は消えました。

もしかしたら、ご家族の介護を経験された方の中にも
介護が終わって時間に余裕が出来て
ホッとしたところで「あともう少し、こうしていれば…」と言う後悔が
湧いてくる方が、いるかもしれません。
私自身、もうやる事がないと言い切れるほど介護したはずなのに
それでも「あの時…」と言う思いが生じるほどです。
たまたま我が家には、病院との記録ノートが残っていたので
それを開く事で現実を見る事が出来、後悔も消えましたが。

なのできっと、みなさんもその時々で「これが一番だ」と思う
ベストの選択をしてきていると思うんです。
だから、後悔は無用なんですよ…と思いたいです。

ところで病院で父と向かい合っている時は、不思議といつも
優しい気持ちになれました。
日常がどんなに殺伐としていても、忙しなくてイライラしていても、
何故か病院を出る時には、いつも穏やかな気持ちに
なっていました。
別に病床の父に、愚痴を吐いたわけではありません。
むしろ常に明るくて、楽しい話題を心がけていたので
日常の殺伐とした事は封印して、接していたにもかかわらず
それでもいつも私自身の心が穏やかになって、帰宅していました。

それがどうしてなのか、今もわかりません。
介護は弱った人の体を、周囲の健常者が支える作業だと
思うのですが、でももしかしたら、私達支える側の人間の心も
いつの間にか癒されているのかもしれません。
私は宗教には疎いんですけど、それでも
人の「優しさ」とは、神様に近い領域なのかもしれない…と
何となく、漠然と思います。
そこに触れる事で、介護する側もされる側も
相互にケアされているんじゃないか。
そういう精神的な領域にまで思いを達すると
「介護って何だろう」と言うテーマは、とても奥が
深いように思います。

介護は大変でした。
でも大変な経験だったからこそ、きっと得た価値は大きい。
そう信じたいです。



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第83話「さてさて、お墓の問題」 [お見送り期]

その1:2016年秋「お墓を選ぶ、いろいろ迷う」

秋風が吹く頃になると、色々な事が大分落ち着いてきました。
そうなると次は「お墓をどうしようか」と言う問題に直面しました。
お墓に関しては、墓守になる弟に一任していたので
手続き等の詳細事項はここでは省き、簡単な流れだけ
お話します。

まずは、お墓選び。
先祖代々お世話になっているお寺に
「土地に空きがありません」と断られた我が家でしたが
そこのお坊さんに「同じ宗派で、新しく作られた霊園がある」
と、住宅地にある墓地を紹介されました。
そこは家からも近いし、綺麗だし、なかなか良い雰囲気です。
しかし問題は少し狭い上に、管理費などが高いことでした。

迷っていると、今度は抽選に応募していた
新しく出来た公共墓地に、当選したと言う便りを受けました。
その墓地は開拓途中の山の頂にありました。
見学に行くと、広々としていてとても綺麗です。
山の周辺は住宅地なんですけど、義妹がつい
「海とかが見えてもおかしくない位、綺麗な風景ですね」と
口にするほど素敵な場所でした。

広くて安くて綺麗…しかし唯一「交通の便が悪い」のが難点です。
そこは私たちが住んでいる土地とは別の街にあり
しかも山の上です。出来たばかりなので交通がまだ
整っていない状態でした。受付の方に問うと
「近い将来、バスが通るようになる…と思います」と言う
見立てでしたが、それまでは墓地の最寄り駅からタクシーで
片道1500円程かかる距離でした。

災害時のお墓.jpg

更にちょうどその頃、大型台風が関東地方に直撃しました。
幸か不幸か偶然か、その時いきなり今まで受信した事が
無かったその街の「災害警報メール」が、私の携帯に入りました。
見ると「××地区は土砂崩れの危険があるので避難してください」
と書いてあります。
ここって…お墓がある山の場所じゃない!?

うーん、お墓とは一生の大きな買い物。
いや、一生どころか、もしかしたら何百年も先まで続く
買い物かもしれません。
「お天気や陽気が良い時ばかりではなく、雨や台風、
もしくは大雪などの場合もシュミレーションした方が良いかも」と
この時、感じました。
あとは色々な人の話を聞く事も、参考になるかもしれません。

お墓みんなの意見.jpg

結局、色々な紆余曲折を経ましたが
幸いもう一つ近場の公共墓地が当たったので
そこに決めました。


その2:2017年1月「そして納骨の日」

1月末の良く晴れた寒い朝、無事にお墓が完成したので
親族が集まって納骨の儀を執り行いました。

何でも新しかったり、一番が好きだった父。
ピカピカの真新しいお墓です。きっと喜んでいるだろうと思います。
私はこの時初めて知ったのですが、お骨はカロート(納骨官)の
手前に入れるものらしいです。奥の方に押し込めてしまうと
手前にもっとたくさんお骨が入るので、新しい死者を
呼び寄せてしまうのだとか。
迷信だとは思いますが、こういう儀式にはきっと色々な
験(げん)があるのでしょう。

(近所の方が「もしお骨を奥に入れられたら、直してもらいなさい」と
教えてくれたのですが、さすがに石屋さんは心得ていて
ちゃんと手前に置いてくれました)

新しいお墓に対する開眼供養(お性根入れ)のお経や
納骨の一連の式が終わった後、お坊さんが言いました。
「亡くなった方は修行の旅に出られます。生きている方も
この世でまだやるべき事が残っています。
お遍路参りには『同行二人(どうぎょうににん)』と
言う言葉がありますが、皆さんと縁があるこの仏様は
これから先も、皆さんの傍にいらっしゃいます。
辛い事があった時はその辛さを半分に
喜び事があった時は喜びを倍に、そうやっていつも
見守って下さいます」と。

そうですね、そうかもしれない。
私達の介護は終わったけれど、人は死んだら
それで終わりではないのかもしれません。

その後は簡単な会食へ。
色々と不慣れな作業もひとまず終わり、ホッと一息ついたのも
束の間、今度は次第に「あれ、なんかおかしい?」と…。
なんだかこの食事会、料理の量が多くない?

私の隣に座っていた年の近い従兄弟とも
「料理の品数けっこう多いね。お腹いっぱいになってきちゃったよ。
もしかして間違って来てたりしてね~」とか
「だとしたら、あの『南京饅頭』って料理がボリューム満点だったから
あれが怪しくない?」とか、そんな冗談で盛り上がります。
しかしそんな中、いきなり支配人らしき男の方が
「スミマセン」と言いながら入ってきて…。

どうやら本当に、料理を一品多く間違って持ってきて
いたらしいのです。
「それじゃあ、それは父からのプレゼントという事で」と言う形で
その場は丸く収められたのですが、再び従兄弟と
「一体何が余分に多かったんだろう?」と、あれこれ考えます。
結局、間違って来たモノはそんな豪華な品ではなく
ましてや疑いをかけられた『南京饅頭』でもなく、
単にシンプルな酢の物なのでした。

納骨の日.jpg

振り返ってみると介護を巡る日々は「えっ!?」と思う様な
不測の事態がたくさんありました。
そして我が家の場合は、最後の最後までこんな状態でしたが、
果たしてどこのご家庭でも、こんなに色々な事が
頻繁に起こっているのでしょうか?
それとも…うちだけ?

でもいずれにしても、賑やかな事が好きだった
父らしいかな、とも思います。


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第82話「四十九日と新盆と」 [お見送り期]

その1:紆余曲折を経て四十九日へ(7月26日)

葬儀の後は四十九日の法要を行いました。
けれど我が家は、ギリギリまで「四十九日はしない…
かもしれない」と言う、悩み多き状況にありました。
と言うのも、うちの地方の習慣では四十九日と納骨は
同じ日に行うのが一般的。しかし我が家はこの時点で
お墓がありませんでした。従って法要も出来ません。

しかし実はそれ以前に、もっと悩ましい事態が発生しておりました。
それは「葬儀の時にお経をあげて貰えない…かも」と言う
驚愕の実態でした。
そもそも我が家の菩提寺には、それこそ300年以上も前から
先祖代々のお墓があります。だから当然そこのお坊さんが
お経をあげてくれるもの…と、長年過信していました。

が、しかし。
近年お寺にお墓(檀家)が増え、お坊さんお一人では
対応出来なくなってきたので「このお寺にお墓がある人にだけ
お経をあげます」と言う方針に、変わっていた様なのでした。

法事の問題.jpg

確かに先祖代々の墓はあっても、父が結婚した時を機に
分家になった我が家には、まだお墓はありません。
それはまさに青天の霹靂(へきれき)と言うべき、大問題でした。
しかし葬儀はもう目前です。
お経をあげて貰わない訳には行きません。
とりあえず、その場では咄嗟に「父だけ本家の墓に入れますから」と
言う約束をして、お坊さんに葬儀を執り行って頂きました。

さて。
そんなこんなで、葬儀はどうにかなりました。
が、しかし。納骨はどうする?
本当に父だけ、本家の墓に入れてもらうわけにもいかないし
でも四十九日の法要をお願いしたら、当然「納骨を」と言う
運びになってしまいます。うーん、頭が痛い。
いっそ辞めるか、四十九日を。
(という事になりますよね、流れ的に)

しかしここで「待った!」をかけたのが、仏壇を購入した
仏具屋さんでした。
「(仏壇に置く本位牌に魂を入れる為にも)四十九日は
された方が良いですよ。そうしないと新しい仏壇を購入しても
使えない(意味がない)ですよ」と。
そして「お墓が無くても、お寺と交渉すれば法事は出来ますよ。
きっと話せばわかって貰えると思いますよ」と
アドバイスをして下さいました。

こうして仏具屋さんに背中を押される形で、
再度お寺に交渉しに行った結果、納骨をせずに法要だけを
執り行って頂ける運びになりました。

そして慌ただしく迎えた法要の日。
この日は7月末にしては梅雨明けもまだのせいか
気温が低く、涼しい風の通る日でした。
広大な本堂に通されると、左右の障子が少し開け放たれていて
まるで映画のロケのように、美しい竹林が見渡せました。
古刹の寺の厳粛な雰囲気は、始終慌ただしくて
なぜかトラブル続きのこの世と、静寂で厳かなあの世との時間を
深く切り離しているようにも感じました。

それにしても、法要の類はなんだか妙に疲れる気がします。
そう言えば亡くなった祖母も「仏様の事を行うと、疲れるモノだ」と
口にしていたのを思い出しました。
単に不慣れな事をしているから、かもしれませんが。


その2:新盆の支度をする(8月13日~16日)

波乱万丈の四十九日からわずか2週間ほど後、
今度は新盆の法要を行いました。
お盆の時期や支度は地方によっても色々と
相違があると思いますが、我が家では「ほおずき」や
「井草」や「竹」などを花屋さんに買いに出かけ、
どうにかこうにか盆棚の支度を整えました。
(本家筋のお盆の飾り付けを思い出してみたり、
本などを見て飾り方を確認しました)

更に新盆の時は、特別に白い提灯を玄関先に飾るのだとか。
これは初めて帰ってくる仏様が、道に迷わない様に
するためだそうです。

他にも「ほおずき」は明かりをともす提灯替わり
(もしくは日よけ)と言う意味合いだったり
キュウリの馬は「早くこちらに戻って来られるように」とか
ナスの牛は「ゆっくりあの世に帰るように」とか
ひとつひとつの飾り物に、ちゃんと意味がある事も
飾り付けをしながら確認していきました。

新盆.jpg

ちなみに子供たちは、くるくる回る「廻り灯篭(とうろう)」に
興味津々でした。そう言えば昔、(手のひらサイズの)
こういうオルゴールを持っていたな…なんて
私自身もついつい懐かしく、思い出したりもしていました。
灯篭、まさに走馬灯の如し…です。

母曰く、都会のお盆は場所もないから灯篭の数も
限られているけれど、田舎に行くと仏壇(盆棚)の両脇に
ずらっといくつも灯篭が並んでいて、それはそれは
壮観な風景なんだとか。

それはきっと幻想的な、異世界の光景でしょう。
こうやって、ひとつひとつの供養を経る事で
父との境界が出来て、結果的に少しずつ見送って
いく事になるんだなと思いました。



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第81話「葬儀前後のトラブルなどなど」 [お見送り期]

お葬式と言うのは、非日常的な出来事です。
なので当然、不慣れな事の連続です。
失敗しても仕方がない…とは思うのですが、なぜか
「失敗は許されない」様な、厳粛な雰囲気も漂っております。

そしてそんな緊張感の中、人によってはテンパってしまい
珍妙な言動をし始めたり、許容範囲がすごく狭くなる事もあります。
すると自然とトラブルも多くなる…今回はそんな類の騒動を
簡単にまとめてみました。

実際、身近な人の葬儀を経験した方々に
お話を伺っても、皆さん必ずと言っていいほど
「トラブルがあって、大変だった」と仰います。
大半は親族間トラブルでしたが、中にはご近所トラブルに
見舞われた人もいたりと、対象は様々でした。
内容的にも「何かと口を挟んだり、仕切りたがる人がいた」とか
「お金の事で、ものすごく執着された。もめた」とか色々です。

また介護をしている時点から、いつしかそこに「自分の居場所」を
見出してしまう人もいます。例えば定年退職した後に
行き場のない方などが、これに当たるとなかなか厄介です。
例えば「オレは(私は)再就職しないで介護してやっている」とか
「俺たちの働きは時給にするといくらになる」とか
珍妙な自己主張を居丈高に始めたり、更には
「この家の〇〇は介護していない」とか「年収800万円を
稼げない人間は発言権がない」とか、やはり珍妙な事を
主張しながら、今度は他者の攻撃を始めたりもする様です。

そしてこの流れで考えると、自然と葬儀の段階に至っても
色々と口を挟んでくる様は容易に想像できます。
しかし何せ介護よりも葬儀の方が、周囲も気持ちに余裕がないので
この時点でついに「トラブル勃発」と言う事態に陥ります。
私が伺った事例では、亡くなった方の直系の親族ではない人が
トラブルを誘発してしまったため、親戚どころか、ご近所中でも
「直系の親族でもないのにねぇ」とか「うちにはうちのやり方が
あるからねぇ」と、驚かれたとか。

そしてこう言うパターンは介護が終わって、もう用事が
なくなった後も、当人は理由をつけてそのままそこに
居ついてしまいがちです。当然ながら周囲からは
徐々に疎まれる…のですが、本人は「自分は役に立っているんだ」
と信じているので、なかなか解決が難しいとも思います。

トラブル語録.jpg
(色々な方にお話を伺うと、皆さんそれぞれ思う事はあるらしい…)

私自身の実体験から考えても、介護や葬儀を通じての
トラブル防止のために、なによりも必要とされるのは
「デリカシー」だなと痛感しました。

「病院へのお見舞い」の際にも同じことが言えますが
全てにおいて、介護をしている家族や、亡くなった方の遺族に対する
「デリカシー」を意識すれば
多少のトラブルは防げるかもしれないと思うのです。

自分の存在を誇示したり、自分の主張を通す前に
まずは一呼吸おいて発言を胸に留める。
そして「相手が一番望んでいるモノは何か」を考えます。

ちなみに私の場合は、ただでさえ身内を亡くして
悲しい想いを抑えながら、葬儀の準備と向かい合っていた時
欲しいものは、ただ「配慮」だけでした。
それに尽きました。
必要な情報や助けは、それを持っている人
(私の場合は直系の親族である伯父(父の兄)や、葬儀屋さん)
の所に自ら伺いに行き、お願いしました。なのでそれ以外の方は
(第79話のご近所の方々のように)
黙って手を貸してくれたり、見守っていてくれれば十分でした。

話変わって、お金の問題。
例えば『うちはお金がないから、争いもない』と考える方もいるかも
しれませんが、経理に詳しい人に聞くと「そうでもないですよ。
お金がなくても、もめる所はもめるんですよ」と言われました。
もめるパターンも、故人の子供たち同志とか、叔母と甥もしくは姪とか。
各家庭によっても、当然ながら千差万別の様ですが
でも一律して、お金関係のトラブルは解決に時間もかかりそうですし
どれも根深そうだなと言う印象は、耳にするたび感じました。

逆に「えっ、こんなトラブルもあるのか!?」という様なモノも。
例えば我が家では、父が亡くなった直後、長年携わってきた
お役所関係の作業の功績に対し、表彰されることになりました。
なんでも役所の偉い方が数名自宅に来て下さるとかで
「スーツを着て待っていてください」と言う連絡が突然入りました。

さぁ大変です。(表彰の時期が葬儀の直前だったので)
とりあえず喪服の準備は出来ていましたが…スーツがないよ!
そんなもの、ふだん着ないよ!
「どうするスーツ!」「喪服じゃダメか!?」なんて感じで
いきなり洋服ダンスを引っ掻き回す騒動が、繰り広げられました。

スーツない.jpg

などなど、多かれ少なかれ非常時には予想外の事がつきものですし
また人間の素の性質も、出やすくなる時だと思います。
なので事前に「こういう時は、トラブルが起こりやすいらしい」と
心構えをしておけば、仮に何かが起こっても多少は落ち着いて
対処できるのでは…と信じたいです。
願わくば、何も起こらない事が一番なんですけど。

最後にトラブルではないけれど、ちょっと驚いたのは
病院の請求書をみた時、ちゃんと「死後の処理代」と言う項目が
組み込まれていた事でしょうか。
その金額や…わりと高い。
介護って最後の最後まで、結構「こんな所にも、お金が要るんだな」
という様な細々したところに、お金がかかった気がしました。
でもそれも、ある程度は仕方ないのかもしれません。

今回はかなり言葉を選んで何度も推敲したので
逆に分かりにくい表現があったかもしれません。
その場合は、すみません。

請求書ビックリ.jpg


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第80話「亡くなって少し落ち着いてから行った事」 [お見送り期]

2016年6月17日~8月中旬
(葬儀が終わって、新盆までの2か月間)

葬儀が終わると、次は四十九日の支度が行われました。
我が家の場合は7月末がそれにあたったので、
終わると立て続けに新盆(土地の風習により8月13日~15日)
を行うと言う、わりと忙しない運びになりました。

葬儀から新盆まで、この間は約2か月。
同時に、事務的な諸々の手続きなども
大体この2か月の内に片付いたように思います。
今回はその間、どのような事を行ったを具体的にお伝えします。

りのとお供え.jpg
(祭壇のお供えをもらっていく姪の図)


その①:弔問客の記録をつける

忙しさの渦中でしたが、それでもなるべく早めに
『弔問客の記録』をつける事は大事だなと思いました。
なぜなら記憶は日が経つにつれて、思っている以上に早く
曖昧になるからです。まして、こういう人の出入りが多い
バタバタしている時は尚更です。

まず葬儀に参列された方や、自宅に来て下さった弔問の方々の
お名前と日時をノートやPCなどに記しました。
お供物や香典を持参して下さった方は、写真を撮ったり、
金額等も記録。またいらした方の人数は
ご本人だけではなく、配偶者やお子供など、同伴者がいた場合も
なるべく正確に記しました。それから父との関係性も。
それらの記録は、誰が読んでもすぐに理解できるよう
最終的に一冊のファイルにまとめました。

もしきちんとまとめる時間が無ければ、メモや紙の余白に
ササッと走り書きするだけでも、当面はいいと思います。
要は書き漏らしたり、忘れる事が無いようにして、後日また
きちんと整理すれば大丈夫かと。

そしてこの一覧を作っておけば、追々調べ物をする際にも、
香典袋や受付に提出して頂いた芳名カードなどを
一枚一枚取り出して調べる手間が省けますし
後年、参列して下さった方に義理などを返す際にも
参考になります。

記録を付ける.jpg


その②:事務手続き色々
次に、以下の行政的な手続きを行いました。

1、銀行口座名義変更手続き(通帳の移行など)
2、国民年金を止める手続き
3、葬儀助成金の申請
4、介護保険証の返却手続き
5、障害者手帳の返却手続き 
6、(病院での)退院に伴う事務手続き

(注;後期高齢者の証明書など、父の『身分証明証』として
使えるものは、思った以上に後々まで頻繁に必要になりました。
なのですぐに返さない方がいいかもしれません。我が家の場合も
役所側に確認したうえで、返却は少し先延ばしにしました)


その③:仏壇を買う
我が家には仏壇がなかったので、仏具屋さんに行き
新しいモノを購入しました。
(注文してから届くまでうちの場合は、約3週間ほどを要しました)
その際、仏壇だけではなく、法要などに関しても
色々と分からない事は、お店の方に相談&確認しながら
行えたので何かと助かりました。

また仏具屋さんは、仏壇の扱い方なども親切に教えてくれました。
例えば、知っているようで意外と知らない「おりんの鳴らし方」など。
これは下から上にすくい上げるように、側面を優しく打つのが
コツだそうです。「よく上から振り下ろしてガンガン強く
鳴らす人がいるけど、あれだと痛みが早くなるからね」
と教えてくれました。
これは家に仏壇がない方でも、どこかに行ってお悔やみ等を
される機会があった際、参考になる助言かなと思いました。

仏壇来る.jpg

ちなみにこの後、一瞬目を離したすきに好奇心旺盛な甥が
鉢の中の灰を「ぷーっ」と吹いて、新品の仏壇を
真っ白な灰被り状態にし、逃走を図った事も併せて記しておきます…。


その④:家系図を作る
我が家の場合、葬儀の際に親族が多く参列しましたが
失礼ながらどの方が、どういう人か、ほとんどわかりませんでした。
と言うのも、父には従兄弟が総勢30名以上いたのですが
そのほとんどが、ほぼ「初めまして」の人だったからです。

これはいけない…と思い立ち、ちょうどいい機会でもあるので
分かる範囲で家系図を作成して、人物関係をきちんと把握して
みる事にしました。
まずは年配の大叔母や、伯父などに聞き取り調査。
その後はお墓に行き、墓石から情報を得ました。
「今は散骨など色々な方法があるが、お墓があると自分のルーツを
遡れるのでありがたいかも」と思いました。
ちなみにうちの場合は、風化していない読み取れる範囲のもので
文政時代とか、元禄時代の物も存在していました。

その後は、役所に行き戸籍を取りました。
役所の窓口の方曰く「ずっと同じ土地に住んでいたら、
戸籍制度が発足した明治初期まで遡って、戸籍を
得ることが出来ますよ」との事。
ちなみにうちは分家筋ですが、直系の子孫なら本家の戸籍を得る事も
可能でした。なので出来る限りの戸籍を出してもらうと…実に
生没年がわかる範囲で、195年ぐらい前の人まで調べることが出来ました。
全体的にざっと7代ぐらい前までは、明確に確認できました。

それ以前の物は「お寺の過去帳を見せてもらうといい」と
役所の方に言われましたが…、菩提寺に出向いて住職に問うと
残念ながら今は色々な問題があるので、仏門界全体で
過去帳を見せない方針になっているそうです。

父の死を通じて、思いがけず自分のルーツを探る旅に出ましたが
逆に言うと、こういう時でないと家系図を作ろう、調べようと言う
気にはならないし、役所やお寺にも相談しにくいので、
いい機会かもしれません。

家系図つくる.jpg


この期間は、そんな感じの日々でした。
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第79話「葬儀前後のご近所協力体制」 [お見送り期]

父が自宅に戻ってから、葬儀までの約1週間。
非常に慌ただしい家族に代わって、ご近所の方が
色々な形で力を貸してくれました。
その中には「これは、ありがたかった!」と思う
機転の利いたモノがいくつかありました。

まず訃報を聞いてすぐに駆け付けてくれたのは、
父を自宅で介護していた時もお世話になった、
近所のYさんでした。
Yさんはご自身も身内を3人介護して看取り、しかも
2か月前に実のお母様を亡くしたばかりでした。
なので機転の利かせ方も動きも、とてもスマートです。
まずご自宅の庭に咲いていた大輪の百合の花を
数本切って、枕花を用意してくれました。

矢野さん協力.jpg

次に父の顔を「入れ歯を入れて、整えた方がいい」と言って
それなりに見られるように、治してくれました。
亡くなった後、病院でも一応「死後の処理」として
それなりに顔を整えてはくれたのですが…それは少し
納得できないものでした。何故かと言うと病院が作る顔は、
あくまでスタッフさん達が見慣れた「病んだ状態の顔」だからです。

父の場合、Yさんが入れ歯を入れただけで、
大分元気な頃の表情に近づきました。
後日、出棺の折には納棺士さんが本格的に整えてくれますが、
その間にも自宅にはたくさんの弔問客がやってきます。
その方々に病んで萎んだ父の顔を晒すのは、あまりにも不憫。
なのでYさんの応急処置はありがたい計らいでした。

また他にも周囲からお借りしたり、頂いたもので
とてもありがたかったのは…
①大きめの花瓶・数個
②お茶菓子を入れる上品な器
③お昼ごはんや晩ごはんの差し入れ でした。

まず花瓶に関しては、連日かなりの量の花束が届いたので
いくつあっても重宝でした。

また遺族はいつ弔問客が訪れるかわからないので
ゆっくり食事を取る時間がありません。
なので昼食には立っていても、すぐに食べられる様な
おにぎりや、お稲荷さんなどがあるとありがたいです。
また夕ご飯の提供もありがたかったです。
夜は比較的時間が取れますが、何せ食事を作る
時間も気力もなく、疲れ果てているので。

食べ物の差し入れは、介護の時と同様に
Yさんや、近所の定食屋さんのKさんが、それぞれ自主的に
請け負って下さいました。
家族はこの時期、絶えず接客に追われ、様々な書類を書き、
葬儀の段取りを進めていたので(しかも仕事をしながら)
さながらフルマラソンをしているかの様な、体力を要していました。
なので食べる物はとても重宝でした。

加藤さん協力.jpg

これ以外にも
④自宅周辺の掃き掃除
⑤自宅周辺の防犯管理
などをYさんや、すぐ裏のご家庭が率先して行って下さり
とても心強かったです。

また別の方からは「『火事場泥棒』と言う言葉もあるから気を付けて。
こういう時は空き巣狙いも多く、変な電話もかかってきやすいよ。
自分の名前も言わずに、葬儀日程だけ聞く手口とか…」と言う
アドバイスも頂きました。確かに慌ただしくて落ち着かない
(しかも寝ていない)遺族にとっては、色々な事が手薄になりがちです。
これは改めてキリリと身が引き締まる助言でした。

更にご近所でこのような協力体制が整っていると、
遺族は間接的にも助かる事が多いです。
例えば「自分の立場では葬儀に参加すべきか、
何かお手伝いをした方が良いのか」と迷う場合は、
隣近所で采配を振るっている方に確認するとスムーズです。
万が一、遺族に直に「手伝った方がいいですか?」
「葬儀に出た方がいいですか?」と聞いたら、それがどんなに
謙虚な申し出であったとしても、遺族は「気にしなくて良いですよ」
としか言えないですし、逆に「お手伝いしますね」と言われても
「もう頼んでいる人がいるから」と、無下には断れないですから。
その点、隣近所が窓口になっていると何かと助かるのです。

余談ですが、うちの場合はこんな事もありました。

父の知り合いの方で、尺八を持っている方が
「葬儀の後、会場で献奏をしたい」と申し出て下さったのです。
献花とか献杯と言う言葉は聞くけれど、演奏を献(ささげる)と
言う事もあるんだなと、この時初めて知りました。
その方は今までも何度か、葬儀会場で遺族に向けて
演奏をされているとか。なので試しに「こんな感じです」と、
我が家に来て一度演奏してくれました。
が、しかし…。

人間、笑ってはいけない場面になると、逆に笑いが出てくるもの。
すごく神妙な場面なのに、なんだか急に
「私どうして今ここで、いきなり尺八の演奏なんて
聞いているのかしら」と、つい冷静に分析したら、
妙に可笑しくなってきました。
ふと見ると、傍らでは弟も笑いを噛み殺しています。
こちらは、うっかり楽譜を見たら「ポペペ、ペポペポ」という様に、
音符ではなく全部カタカナ表記だったらしく、度肝を抜かれた末の
笑いだったようです…。果たしてこのような状態で
式本番、我々は大丈夫なんだろうか!?

尺八献奏.jpg

しかしその心配は杞憂に終わりました。
実際に通夜の席の終盤に、遺族だけを残して行われた献奏は
ものすごくしっとりと落ち着いた、静かな余韻をもたらしました。
葬儀と言うのは、恐らくどこもそうだとは思いますが、
とても機械的でテキパキした、マニュアル通りの流れ作業です。
余韻よりもスムーズな進行に重きを置いた感じです。
それはまぁ仕方がない事。
でもこうした、マニュアル以外の情のこもった演出があると
そこで初めて、ホッと息をついて落ち着ける心持がしました。
「ああ、静かに優しくお見送りをするんだな」と。

家では何であんなに可笑しかったのでしょう。
所変われば…かもしれませんが、不思議なモノです。
なので演奏後は心底感謝を伝えられました。
その方によると、やはり喜ばれるご遺族が多いそうです。

人の情のかけ方や、遺族の支え方には色々なやり方があると
しみじみ感じました。


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第78話「葬儀。最後の別れ」 [お見送り期]

2016年6月15日~16日

父の葬儀の日。
私は朝からせっせと団子を作っていました。
そして夕方、団子(他)を持って斎場へ。

父の花束1.jpg

父は生前よく「オレは一番広い式場で葬式をしたい」と
言っていました。なので遺言通り、一番広い部屋
(140人ぐらい対応)を取ったのですが…。
大きな部屋を取るのは容易いが、果たして参列者が
そんなに来るものなのか?
これで人が来ない時ほど、悲しい事はないんじゃないか
…と、家族としては若干不安を抱きます。

今も現役で仕事をしている人ならともかく、
介護が始まって、更に入院してからは、外の世界との
関係がほとんど途絶えていた父です。世間的にもう
忘れられているんじゃないだろうか…と、思ってしまいます。

けれど、いざ式が始まってみると部屋に入りきれなかった方が
廊下に溢れ、その数はどんどん、どんどん増えていきました。
「ああ、ありがたいなぁ」と、駆けつけて来て下さった方々を見て
心からそう思いました。

葬儀会場にて.jpg

しかし同時に「なぜ、こんなにたくさんの方が?」と
不思議な心持もしました。
病院に居た2年8か月、父はほとんど誰とも会わなかったのに。
社会との関係は、完全に切れてしまったと思っていたのに。

きっと…人が(それなりの年月を)生きてきたと言う事は、
これだけ重みがある事なんだと思います。
と同時に、参列者の方々を見ながら
「やっぱり父の最後の言葉は『頼んだぞ』
だったんじゃないかな」と改めて思っていました。


翌日は告別式が行われました。
「お顔に触れられるのは、これが最後ですよ」との
葬儀社さんの言葉に、そっと父の顔をなでます。

透析をすると体がかゆくなる人が多いので
いつも頭を掻いてあげていたけれど「もうその必要もないのね」と。
そして頬をなでながら「あんなに一生懸命、いつも綺麗に整えて
もらっていたのにね」と思いながら。
そう、あんなに介護したのにね。もう灰になってしまうのね。
私がずっと看てきた日々は、何だったんだろう。
費やしてきた時間は無駄だったんだろうか。
悲しみ以上に、そんな無力感に襲われそうになります。

でも、それが介護なのかもしれない。
強いては、こういう虚しく、儚い気持ちも全部抱えて
それが「生きる」と言うことなのかもしれない。

父にはずっとたくさんの言葉をかけてきました。
目が見えなくても、外の世界の様子がわかる様に。
少しでも気晴らしになり、慰めになるように。
棺のふたが閉じられる直前、父に向かって
最後の言葉をかけました。

「おとうさん、またね。ありがとう」


20160520空の雲.jpg

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第77話「出棺、父の旅立ち」 [お見送り期]

2016年6月10日~14日

父が自宅に戻ってから、出棺までに3日半ほどありました。
その間、家族は朝早くから、夜も割と遅い時間まで
弔問に訪れるお客様の接待をしていました。
長時間に渡るので諸々大変ではありますが、それでも
父を偲んできて下さった方々の気持ちや言葉は
とても優しくて、ありがたいなと心に沁みました。

葬儀社の方も連日自宅に来ては、喪主である弟と共に
次々と段取りを詰めていきました。
そしてこの時点で「こうした方が便利だな」と思ったのは
「葬儀日程の用紙をコピーする」事でした。
葬儀の日時や場所が決定すると、会場までの地図など
詳細が記された用紙を葬儀社さんが用意してくれますが
これを複数枚コピーします。
自宅に来た弔問客中には、葬儀日程を確認して帰られる人も
多かったので、その際に用紙(コピー)をお渡しすると
口頭で伝えるよりもミスがなく確かですし、何よりスマートでした。

日程をコピーする.jpg

バタバタした喧騒が絶えない内に、6月12日(日)が来ました。
この日は父の出棺でした。

まず葬儀社さんと共にいらした納棺士さんが、
1時間ほどかけて父の旅支度を整えてくれます。
長く患い、病院で次第にやせ細って行った父は
入れ歯が外されたせいで口がすぼみ、手足も拘縮が激しくて
折れ曲がったまま戻らず、身体も表情も大分変わっていましたが、
納棺師さんが整えてくれたその姿は…驚くほど綺麗でした。

口元は凛々しく閉じ、手もきちんと組み合わさって
「よくここまで綺麗に出来たな」と、感心するほどです。
家に居た頃の、いや病気をする以前の元気な時の姿、
そのままに戻っていました。まさに映画「おくりびと」の世界。
何か一言、納棺士さんに感想なり、お礼の言葉を伝えたいけれど
何か一言でも漏らしたら、その場で泣き崩れてしまいそうです。
しかしここでも「こんなに綺麗にしていただいて」と、きちんと
お礼の言葉を発したのは母でした。
土壇場では、母が一番気丈だったかもしれません。

そして白装束姿の旅支度に整えられた父は
もう今までの病人の姿ではなく、これから別の世界に
旅立つ人の風貌になっていました。

家族や親族が末期の水を口に含めたり、数珠や六文銭を
持たせ旅支度を整えます。棺に入れられた父の周辺には
思い出の品やお菓子、甥が作った花の折り紙、実の孫のように
かわいがっていた近所のKちゃんが、初任給で買ってくれた靴下、
そして私が描いた父の介護の本などが入れられました。
こうして集まった親族や、沢山の近所の人(総勢30名ほど)が
見守る中、父は家を後にしました。

出棺にて.jpg

父が家からいなくなって初めて、ふっと肩の力が抜けました。
亡くなってから今まで、ずっと「父が居る間はしっかりしなくては」と
思って頑張ってきました。
介護の延長の様な心持だったのかもしれません。
出棺してはじめて、父は私たち家族の手を離れて
「居なく」なってしまった。
それに気が付いた瞬間は、ものすごく切なかったです。
そして長年ずっと「いつかは、こういう日が来る」と
覚悟していたはずの介護の日々だったのに、この時
頭に浮かんだのは全く逆の想いでした。

「あんなに看たのに。あんなに介護したのに。
何で死んでしまったんだろう」と。

もう治る体ではないと分かっていたし、悔いが残らないようにしようと
頭ではわかっていました。
でも自分でも本当は「どうしてこんなに、私は親身に介護したり
病院に通っているんだろう」と、不思議に思っていました。
この時初めて、心の奥深くでは「頑張って介護したら
父はまた元気になるかもしれない」と、そんな
小さな子供みたいな事を考えていた事に、気付かされました。

私は父を「最後まで」支えてきたつもりでした。
けれど本当は治って欲しかった。
また元気に暮らして欲しかった。
だから後から思い返しても、葬儀よりもその気持ちに気付いた
出棺の時の方が一番切なかったです。

元気になると思っていた.jpg

その後2日間、父は式場の霊安室に居ました。
霊安室も、友引の日以外は面会が出来る仕組みでしたので
何となく父の体がある内は「1人では寂しくて退屈かもしれない」と
なんだか病院に居た頃のままの感覚で心配になり、
妹と共に会いに行ってみました。
でも棺に入れられた父の顔は、当然ながら病院に居た頃の
私の事を待っている顔ではありませんでした。
「ああ、もう静かに眠らせておいてあげよう」と、そう思える様な
穏やかに眠っている顔でした。

少しずつ、少しずつ、別れる準備が整ってきていました。


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第76話「亡くなってすぐに行った事、いろいろ」 [お見送り期]

2016年6月9日(木)

真夜中に父を連れて帰宅してから、一睡もできないまま
迎えた朝。しかし周囲の状況は待ったなしのフル回転で
進んでいきました。

まず朝一番に、父の兄にあたる伯父が我が家の
菩提寺(先祖代々のお墓があるお寺)に行き、
お坊さんの日程を抑えてくれました。そこに葬儀社さんが
加わって、葬儀式場に連絡し葬儀の日を調整します。
我が家は弟が喪主になったので、今後一切の
お寺と葬儀社さんとの打ち合わせや流れは
伯父と弟が主体となって取り進めました。

手分けして作業.jpg

(主な打ち合わせ内容は、参列者のおおよその目安と
それによって会葬礼状をどれぐらい印刷するか。
祭壇の種類、食事や返礼品をどのようにするか
遺影の用意など)

一方、私は各種書類の手続きと、弔問客の接待担当です。

やる事はたくさんあったのですが、こういう場合何から
手を付けていいのかよくわかりません。
なので取りあえずは役所に行って、父の「死亡届と死亡診断書」
を提出しました。
すると引き換えに「火葬許可書」を受け取れます。
(うちの場合は火葬許可書はすぐに葬儀社さんに手渡しました。
それがないと式場を抑えられない仕組みだったようです)

ちなみにこの死亡届、その後も様々な書類の申請に於いて
「提出してください」とか「郵送してください」と言われることが
相次ぎました。なので役所に提出する前にコピーを数枚
取っておくと良いかと思います。

役所スムーズ.jpg

次の手順に戸惑っていると、役所の方から
「身内が死亡した時に行う手続き一覧」と言う紙を頂けました。
(市区町村が独自に製作したもののようです。きっとこういう場合
戸惑う人が多いのでしょうね)なのでそれに従って、
すぐに行った方がいい手続きを当日中にしました。

うちの場合は世帯主が変わってしまったので
「世帯主変更届」を提出し、新しい住民証を作成しました。
そうなると健康保険証の内容も変わるので
「保険証の変更」の手続きも行います。
また個人が保険会社に入っていた場合は
「除籍住民票」が必要になるので、それも取得します。

更に自治体によって対応は様々かと思いますが
葬儀の際の助成金が支払われると言う事で
「助成金申請手続」を行います。
父は75歳以上だったので、「後期高齢者助成金」ですが
それ以下の年代の方は「国民年金助成金」を頂けるそうです。
ちなみに金額は同じです。

なので亡くなってすぐに行った手続きと、取得した書類は
下記のとおりです
①「死亡届と死亡診断書」の提出
②「火葬許可書」を受け取り
③「世帯主変更届」を提出
④「(世帯主が変わった)保険証の再発行」
⑤「除籍住民票」を取得
⑥「葬儀助成金申請」

役所の書類たち.jpg

次に自宅に戻ってからは、ご近所への連絡と弔問客の対応です。

まず我が家の場合は、付き合いが長い近所のご家庭
2~3軒ほどに、直に父の訃報に関する挨拶をしに行きました。
その際、同時に葬儀の際のお手伝い(受付係りや、
台所(お浄めの際の接待・誘導)係)もお願いしました。

それ以後、遺族は訪れる弔問客の対応に追われて
お茶やお茶菓子の用意をしたり、接客をしたりと
てんてこ舞いの状態になります。しかし機転を利かせた
ご近所の方々の協力もあり、何とか乗り切れました。
この時、ご近所や周囲の方々がどんな動きをして下さったか…は
また別の項目で描きたいと思います。

父が亡くなって最初の日は、このような感じで
余りにもやる事が多く、冷静にに勤めなくてはと思いながらも
余裕がない状態でした。なのにこういう時に限ってトラブルを
誘発する人がいるので、そちらの言動にも気を張り巡らせながら
未然に抑えつつ(こういう人はどのご家庭の話を聞いても、
割と確実にいる様ですね)非常に、非常に慌ただしく過ぎていきました。
良いか悪いか、ゆっくり悲しみに浸る間はありませんでした。

ばたばた.jpg

一方、大人たちがそんな状態の中で…
甥が黙って仏壇に手を合わせてたり、小さな4歳の姪が
一生懸命父の枕もとにお菓子を運んでは
手を重ねあわせて「じじが早く治りますように」と
祈っている姿が印象的でした。

子供達の想い.jpg




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第75話「真夜中の電話、父との別れ」 [お見送り期]

2016年6月8日(水)

5月の最後の日曜日、病院にお見舞いに行くと
看護師さんが「お父様が昨晩嘔吐し、血圧が下がりました。
今は落ち着いていますが、酸素チューブや心電図の機材など
体が管だらけになっているので、驚かないでくださいね」と言いました。

今までも時おり、こういう状態になっては回復する…を
繰り返していました。なのでまた、その流れだろうと
思っていたのですが、どうも今回は呼吸が荒い様子です。
それでも徐々に熱も下がり、点滴も外れ、一時は
ほぼ元の元気な状態にまで戻ってきていたのですが
酸素チューブを外す段階になると、ぐっと酸素量が減り
肩で息をし出しました。
なので今回は特に、お医者様も看護師さん達も慎重に対応していました。

そんな状態が10日ほど続いた、6月8日の昼間。
「2日前の深夜にも、呼吸が荒くなって一時的に酸素マスクを
はめたらしいよ」と言う私の言葉を受け、普段は仕事が忙しい
母も珍しく一緒にお見舞いに行きました。

病床の父に声をかけると、ぱちっと目を開いて
私の顔をじっと真っ直ぐに見ました。
それまでも、ごくたまに目を開ける事はあっても、
もう何も見えてはいないので、視線はいつも虚空をさまよって
定かではありませんでした。
けれどこの時は、なぜかしっかりと焦点があっていた。
なので「見えていない」とわかっていても、その目を見たら
「ああ、元気で家に居た頃の顔みたいだな」と思えて、一瞬懐かしかった。

その後、父は2度ばかり枕から頭を起こして
一生懸命、何かを伝えようとしていました。
私達も「どうしたの?何か言いたいの?」と懸命に耳を
そばだてるけれど、もう父の声は言葉にはならず
「きゅーきゅー」と、喉から空気が漏れる音がするのが精一杯です。
それでも何かを言おうとしている事は伝わるので
「何か言いたい事があるんだね。それはわかるよ」と言うと
その内に力が尽きたのか、スーッと寝入ってしまいました。

伝えたいこと75.jpg


結局、それが最後になりました。

同じ日の8日深夜、11時40分ごろ病院から自宅に電話が入りました。
今までも時おり危険な場面はあり、そのたびに
「いつ様態が急変してもおかしくはない」とか「心づもりを」と言う言葉を
お医者さまから言われていたので、この時もそういう類の事を告げる
電話だと思いながら、受話器を取りました。
しかし電話口の看護師さんが告げたのは
「お父様が、息をしていない様です」と言う一言でした。

…息をしていない!?
危ないとかそういう状態ではなく、「息をしていない」って!?
それって亡くなっていると言う事なの?
それとも蘇生の可能性があると言う事なの?
予想外の言葉に戸惑っている私に、看護師さんは
「確認をしていただきたいので、どれぐらいで病院に来られますか」と尋ねます。
「出来る限り早く向かいます」と伝えてから電話を置き、その後は
母と手分けして身支度をしました。

こういう時がいつかは来る…と、覚悟はしていましたが
実際に起こると、意外とバタバタしてしまい、考えがまとまりません。
この段階で一番冷静で、的確だったのは母でした。
母は必要なものをしっかりと用意して家を出ました。
私はその間、病院に来られそうな親族に電話をかけましたが
真夜中と言う事もあり、連絡が取れたのは弟だけでした。
そして偶然自宅前で休憩していたタクシーに乗って、病院に向かいました。

真夜中の支度75.jpg

ちなみにこの時、母が用意したもので実際に役に立ったのは
「葬儀社さんの連絡先(電話番号)」と
「父の私物を入れる大きな袋」でした。

また「着替え用の服」なども持っては行ったのですが
この病院では帰宅用の浴衣がちゃんと用意されていたので
服は不要でした。
あと気が付いた点では、行きは自宅の前にタクシーがいたけれど
帰りは足がないので「タクシー会社の連絡先(電話番号)」も
あらかじめ控えておくといいと思いました。
(自分の家には車があるとか、親族に車を出してもらおうと
思っている場合でも、いざという時に運転する人がお酒を飲んでいたり
寝入っていて電話が繋がらなかったりと言う事もあります
ちなみにうちの場合がそうでした)

またうちは葬儀社さんをあらかじめ決めていたのですが
仮に葬儀社さんが特定していない場合は
その時、病院に待機している業者さんや、病院の方で
手配する業者さんに依頼する事になる様です。
以前、うちの親戚筋で不幸があった時も「ローテーションで病院に
待機している葬儀社さんがいたので、その場でお願いした」人がいました。
けれど「いざ葬儀をしようとしたら、希望の式場とあまり関わりがない
業者だったせいか、日程がなかなか取れず
すごく待たされた」とも。(ご参考までに)

実際に「様態が危ない」もしくはうちのように「亡くなりました」と言う
連絡を受けてから、業者を探すのは無理なので
事前に「ここの業者さんにしましょう」と決めておいた方が
無難だと思います。


病院に到着した私たちは、まっすぐ父のベッドに向かいました。
そこにはいつもみたいに、普通に寝ている父がいて
「もしかしたら、呼びかけたら蘇生するのでは」と言う思いもありました。
けれどいつもの様に「おとうさん」と、3回呼んでみたけれど、
動く気配にはありません。
そこにあるのは、父の「入れ物」だけでした。

当直の看護師や介護士さん曰く「11時10分に見回りした時は
穏やかに息をしていました。でも20分後に再度確認した時は
もう息をしていませんでした」と。
父は誰にも看取られず、一人で静かに逝ってしまったようです。

死亡確認をしてくださった先生は、今まで見たことがない方でした。
「私は常勤医ではなく、深夜だけの当直医です。
なので患者さんのここ数日の様子を看護師から聞くと…」と
説明を始めましたが、恐らくこの先生よりも日参して様子を見ていた
私の方が遥かに状況に詳しいかもしれない。

なので「うん、あってる。その説明でほぼ間違いない」と
心の中で相違点を慎重に確認しながら聞いていました。
死因は(長年の人工透析で腎臓機能が弱っていた事による)
『慢性腎不全』でした。先生曰く、心臓か肺が急に停止したのでしょう、と。
全く苦しんだ様子がなかったことが救いだ、と言われました。
まるでそこまでが寿命で、そこに到達したから旅立った様な
そんな静かな最後でした。

説明75.jpg

死亡確認が済むと、すぐにスタッフさん達が父の身支度をしてくれました。
その間、私たちは葬儀社さんに連絡をします。
40~50分ばかり到着を待つ間、医師から死亡診断書を受け取ったり
入院費の支払いの手続きを確認しました。
そして真夜中にもかかわらず、きちんとしたスーツ姿で
葬儀社さんがお二人現れました。当たり前と言えば当たり前ですが
深夜の病院にきちんとしたスーツ姿の人…と言うのは、
すごくインパクトがあるものです。やはり。
「葬儀社さんって24時間臨戦体制なんだ。すごいな」と
そんな事につい感心してしまいました。

葬儀社さんは私たちに、父を白いシーツにそっとくるむと、
どこに安置するかを確認してから、静かにストレッチャーに乗せて
運び出しました。私達は同乗できなかったので、その場で
タクシーを呼びます。車を待つことしばし。
その間、当直の看護師さんと介護士さん2人が
玄関先まで立ち会って下さったので「介護士さんって
患者さんの世話をするだけではなく、こういう場面にも
立ち会うお仕事だったんですね」と言う私に、彼らは
「そうなんです。切ないんですよ。かぶさんは2年…いや、
もっと長くいましたもんね」と、涙ぐみながら見送って下さいました。
昼の時間なら、手の空いているスタッフさんがもっとたくさん集まって
見送って下さいます。でも少人数でも、心のこもった見送りに
「この病院で預かって頂けて、本当に助かりました」と
感謝の言葉を残して、病院を後にしました。

父の死の報を受けてから、この間たったの2時間弱です。
末期の方が多く、しかも霊安室がないこの病院では
いつも迅速に「お家に帰られる方が多い」とは思っていましたが
なるほど、こんなにテキパキと機能的だからなのね。
2年半も生活していた病院を去るのが、わずか2時間とは
呆気ないものです。でもまぁ、逆にあんまり執着があっても困るけれど。
急に降り始めた涙雨の中、お世話になったほとんどの方に
挨拶もできないままの、静かな帰還でした。

タクシーで葬儀社さんの車を誘導しつつ、自宅に戻ると
業者さんは、すぐにテキパキとベッドに白いシーツをかけて
父を横にし、手前にはお線香などの細々した物を設置した台を
用意して「続きはまた明日」と言って、帰って行かれました。
その後、私達家族は遠方の親族に電話連絡をしてから、休む事に。
でも当然ながら、一睡も出来ず朝を迎えました。

病院に入った時から「帰りたい」と言っていた家に
父はようやく戻ってきました。
もう好きなものを食べ、目も見えて、話もでき、そして両足で歩く事も
可能です。かゆい所も、痛い所もありません。気持ちの上では。
不自由な体から、ようやく自由になれました。
でもそれは、家族にとって大きな寂しさを伴うものでした。

父は最後は母を待ってから逝ったのかもしれない。
最後に伝えたかった言葉は…通常なら「ありがとう」だけど
そういう事を言うタイプの人ではなかったし、むしろ力強い感じでも
あったから、もしかしたら「頼んだぞ」だったかもしれない。
恐らく本人も、もうこれが最後だと察していたのかもしれません。

父帰宅75.jpg

しとしと降り続く雨の中、静かで寂しい父の帰宅。
が、しかし。
静かで寂しかったのは、夜明けまでのほんの数時間だけ。
朝が来てからは、「寂しい」と思う暇もないほどの
怒涛の日々がやってきました。


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