第77話「出棺、父の旅立ち」 [お見送り期]

2016年6月10日~14日

父が自宅に戻ってから、出棺までに3日半ほどありました。
その間、家族は朝早くから、夜も割と遅い時間まで
弔問に訪れるお客様の接待をしていました。
長時間に渡るので諸々大変ではありますが、それでも
父を偲んできて下さった方々の気持ちや言葉は
とても優しくて、ありがたいなと心に沁みました。

葬儀社の方も連日自宅に来ては、喪主である弟と共に
次々と段取りを詰めていきました。
そしてこの時点で「こうした方が便利だな」と思ったのは
「葬儀日程の用紙をコピーする」事でした。
葬儀の日時や場所が決定すると、会場までの地図など
詳細が記された用紙を葬儀社さんが用意してくれますが
これを複数枚コピーします。
自宅に来た弔問客中には、葬儀日程を確認して帰られる人も
多かったので、その際に用紙(コピー)をお渡しすると
口頭で伝えるよりもミスがなく確かですし、何よりスマートでした。

日程をコピーする.jpg

バタバタした喧騒が絶えない内に、6月12日(日)が来ました。
この日は父の出棺でした。

まず葬儀社さんと共にいらした納棺士さんが、
1時間ほどかけて父の旅支度を整えてくれます。
長く患い、病院で次第にやせ細って行った父は
入れ歯が外されたせいで口がすぼみ、手足も拘縮が激しくて
折れ曲がったまま戻らず、身体も表情も大分変わっていましたが、
納棺師さんが整えてくれたその姿は…驚くほど綺麗でした。

口元は凛々しく閉じ、手もきちんと組み合わさって
「よくここまで綺麗に出来たな」と、感心するほどです。
家に居た頃の、いや病気をする以前の元気な時の姿、
そのままに戻っていました。まさに映画「おくりびと」の世界。
何か一言、納棺士さんに感想なり、お礼の言葉を伝えたいけれど
何か一言でも漏らしたら、その場で泣き崩れてしまいそうです。
しかしここでも「こんなに綺麗にしていただいて」と、きちんと
お礼の言葉を発したのは母でした。
土壇場では、母が一番気丈だったかもしれません。

そして白装束姿の旅支度に整えられた父は
もう今までの病人の姿ではなく、これから別の世界に
旅立つ人の風貌になっていました。

家族や親族が末期の水を口に含めたり、数珠や六文銭を
持たせ旅支度を整えます。棺に入れられた父の周辺には
思い出の品やお菓子、甥が作った花の折り紙、実の孫のように
かわいがっていた近所のKちゃんが、初任給で買ってくれた靴下、
そして私が描いた父の介護の本などが入れられました。
こうして集まった親族や、沢山の近所の人(総勢30名ほど)が
見守る中、父は家を後にしました。

出棺にて.jpg

父が家からいなくなって初めて、ふっと肩の力が抜けました。
亡くなってから今まで、ずっと「父が居る間はしっかりしなくては」と
思って頑張ってきました。
介護の延長の様な心持だったのかもしれません。
出棺してはじめて、父は私たち家族の手を離れて
「居なく」なってしまった。
それに気が付いた瞬間は、ものすごく切なかったです。
そして長年ずっと「いつかは、こういう日が来る」と
覚悟していたはずの介護の日々だったのに、この時
頭に浮かんだのは全く逆の想いでした。

「あんなに看たのに。あんなに介護したのに。
何で死んでしまったんだろう」と。

もう治る体ではないと分かっていたし、悔いが残らないようにしようと
頭ではわかっていました。
でも自分でも本当は「どうしてこんなに、私は親身に介護したり
病院に通っているんだろう」と、不思議に思っていました。
この時初めて、心の奥深くでは「頑張って介護したら
父はまた元気になるかもしれない」と、そんな
小さな子供みたいな事を考えていた事に、気付かされました。

私は父を「最後まで」支えてきたつもりでした。
けれど本当は治って欲しかった。
また元気に暮らして欲しかった。
だから後から思い返しても、葬儀よりもその気持ちに気付いた
出棺の時の方が一番切なかったです。

元気になると思っていた.jpg

その後2日間、父は式場の霊安室に居ました。
霊安室も、友引の日以外は面会が出来る仕組みでしたので
何となく父の体がある内は「1人では寂しくて退屈かもしれない」と
なんだか病院に居た頃のままの感覚で心配になり、
妹と共に会いに行ってみました。
でも棺に入れられた父の顔は、当然ながら病院に居た頃の
私の事を待っている顔ではありませんでした。
「ああ、もう静かに眠らせておいてあげよう」と、そう思える様な
穏やかに眠っている顔でした。

少しずつ、少しずつ、別れる準備が整ってきていました。


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