第82話「四十九日と新盆と」 [お見送り期]

その1:紆余曲折を経て四十九日へ(7月26日)

葬儀の後は四十九日の法要を行いました。
けれど我が家は、ギリギリまで「四十九日はしない…
かもしれない」と言う、悩み多き状況にありました。
と言うのも、うちの地方の習慣では四十九日と納骨は
同じ日に行うのが一般的。しかし我が家はこの時点で
お墓がありませんでした。従って法要も出来ません。

しかし実はそれ以前に、もっと悩ましい事態が発生しておりました。
それは「葬儀の時にお経をあげて貰えない…かも」と言う
驚愕の実態でした。
そもそも我が家の菩提寺には、それこそ300年以上も前から
先祖代々のお墓があります。だから当然そこのお坊さんが
お経をあげてくれるもの…と、長年過信していました。

が、しかし。
近年お寺にお墓(檀家)が増え、お坊さんお一人では
対応出来なくなってきたので「このお寺にお墓がある人にだけ
お経をあげます」と言う方針に、変わっていた様なのでした。

法事の問題.jpg

確かに先祖代々の墓はあっても、父が結婚した時を機に
分家になった我が家には、まだお墓はありません。
それはまさに青天の霹靂(へきれき)と言うべき、大問題でした。
しかし葬儀はもう目前です。
お経をあげて貰わない訳には行きません。
とりあえず、その場では咄嗟に「父だけ本家の墓に入れますから」と
言う約束をして、お坊さんに葬儀を執り行って頂きました。

さて。
そんなこんなで、葬儀はどうにかなりました。
が、しかし。納骨はどうする?
本当に父だけ、本家の墓に入れてもらうわけにもいかないし
でも四十九日の法要をお願いしたら、当然「納骨を」と言う
運びになってしまいます。うーん、頭が痛い。
いっそ辞めるか、四十九日を。
(という事になりますよね、流れ的に)

しかしここで「待った!」をかけたのが、仏壇を購入した
仏具屋さんでした。
「(仏壇に置く本位牌に魂を入れる為にも)四十九日は
された方が良いですよ。そうしないと新しい仏壇を購入しても
使えない(意味がない)ですよ」と。
そして「お墓が無くても、お寺と交渉すれば法事は出来ますよ。
きっと話せばわかって貰えると思いますよ」と
アドバイスをして下さいました。

こうして仏具屋さんに背中を押される形で、
再度お寺に交渉しに行った結果、納骨をせずに法要だけを
執り行って頂ける運びになりました。

そして慌ただしく迎えた法要の日。
この日は7月末にしては梅雨明けもまだのせいか
気温が低く、涼しい風の通る日でした。
広大な本堂に通されると、左右の障子が少し開け放たれていて
まるで映画のロケのように、美しい竹林が見渡せました。
古刹の寺の厳粛な雰囲気は、始終慌ただしくて
なぜかトラブル続きのこの世と、静寂で厳かなあの世との時間を
深く切り離しているようにも感じました。

それにしても、法要の類はなんだか妙に疲れる気がします。
そう言えば亡くなった祖母も「仏様の事を行うと、疲れるモノだ」と
口にしていたのを思い出しました。
単に不慣れな事をしているから、かもしれませんが。


その2:新盆の支度をする(8月13日~16日)

波乱万丈の四十九日からわずか2週間ほど後、
今度は新盆の法要を行いました。
お盆の時期や支度は地方によっても色々と
相違があると思いますが、我が家では「ほおずき」や
「井草」や「竹」などを花屋さんに買いに出かけ、
どうにかこうにか盆棚の支度を整えました。
(本家筋のお盆の飾り付けを思い出してみたり、
本などを見て飾り方を確認しました)

更に新盆の時は、特別に白い提灯を玄関先に飾るのだとか。
これは初めて帰ってくる仏様が、道に迷わない様に
するためだそうです。

他にも「ほおずき」は明かりをともす提灯替わり
(もしくは日よけ)と言う意味合いだったり
キュウリの馬は「早くこちらに戻って来られるように」とか
ナスの牛は「ゆっくりあの世に帰るように」とか
ひとつひとつの飾り物に、ちゃんと意味がある事も
飾り付けをしながら確認していきました。

新盆.jpg

ちなみに子供たちは、くるくる回る「廻り灯篭(とうろう)」に
興味津々でした。そう言えば昔、(手のひらサイズの)
こういうオルゴールを持っていたな…なんて
私自身もついつい懐かしく、思い出したりもしていました。
灯篭、まさに走馬灯の如し…です。

母曰く、都会のお盆は場所もないから灯篭の数も
限られているけれど、田舎に行くと仏壇(盆棚)の両脇に
ずらっといくつも灯篭が並んでいて、それはそれは
壮観な風景なんだとか。

それはきっと幻想的な、異世界の光景でしょう。
こうやって、ひとつひとつの供養を経る事で
父との境界が出来て、結果的に少しずつ見送って
いく事になるんだなと思いました。



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第81話「葬儀前後のトラブルなどなど」 [お見送り期]

お葬式と言うのは、非日常的な出来事です。
なので当然、不慣れな事の連続です。
失敗しても仕方がない…とは思うのですが、なぜか
「失敗は許されない」様な、厳粛な雰囲気も漂っております。

そしてそんな緊張感の中、人によってはテンパってしまい
珍妙な言動をし始めたり、許容範囲がすごく狭くなる事もあります。
すると自然とトラブルも多くなる…今回はそんな類の騒動を
簡単にまとめてみました。

実際、身近な人の葬儀を経験した方々に
お話を伺っても、皆さん必ずと言っていいほど
「トラブルがあって、大変だった」と仰います。
大半は親族間トラブルでしたが、中にはご近所トラブルに
見舞われた人もいたりと、対象は様々でした。
内容的にも「何かと口を挟んだり、仕切りたがる人がいた」とか
「お金の事で、ものすごく執着された。もめた」とか色々です。

また介護をしている時点から、いつしかそこに「自分の居場所」を
見出してしまう人もいます。例えば定年退職した後に
行き場のない方などが、これに当たるとなかなか厄介です。
例えば「オレは(私は)再就職しないで介護してやっている」とか
「俺たちの働きは時給にするといくらになる」とか
珍妙な自己主張を居丈高に始めたり、更には
「この家の〇〇は介護していない」とか「年収800万円を
稼げない人間は発言権がない」とか、やはり珍妙な事を
主張しながら、今度は他者の攻撃を始めたりもする様です。

そしてこの流れで考えると、自然と葬儀の段階に至っても
色々と口を挟んでくる様は容易に想像できます。
しかし何せ介護よりも葬儀の方が、周囲も気持ちに余裕がないので
この時点でついに「トラブル勃発」と言う事態に陥ります。
私が伺った事例では、亡くなった方の直系の親族ではない人が
トラブルを誘発してしまったため、親戚どころか、ご近所中でも
「直系の親族でもないのにねぇ」とか「うちにはうちのやり方が
あるからねぇ」と、驚かれたとか。

そしてこう言うパターンは介護が終わって、もう用事が
なくなった後も、当人は理由をつけてそのままそこに
居ついてしまいがちです。当然ながら周囲からは
徐々に疎まれる…のですが、本人は「自分は役に立っているんだ」
と信じているので、なかなか解決が難しいとも思います。

トラブル語録.jpg
(色々な方にお話を伺うと、皆さんそれぞれ思う事はあるらしい…)

私自身の実体験から考えても、介護や葬儀を通じての
トラブル防止のために、なによりも必要とされるのは
「デリカシー」だなと痛感しました。

「病院へのお見舞い」の際にも同じことが言えますが
全てにおいて、介護をしている家族や、亡くなった方の遺族に対する
「デリカシー」を意識すれば
多少のトラブルは防げるかもしれないと思うのです。

自分の存在を誇示したり、自分の主張を通す前に
まずは一呼吸おいて発言を胸に留める。
そして「相手が一番望んでいるモノは何か」を考えます。

ちなみに私の場合は、ただでさえ身内を亡くして
悲しい想いを抑えながら、葬儀の準備と向かい合っていた時
欲しいものは、ただ「配慮」だけでした。
それに尽きました。
必要な情報や助けは、それを持っている人
(私の場合は直系の親族である伯父(父の兄)や、葬儀屋さん)
の所に自ら伺いに行き、お願いしました。なのでそれ以外の方は
(第79話のご近所の方々のように)
黙って手を貸してくれたり、見守っていてくれれば十分でした。

話変わって、お金の問題。
例えば『うちはお金がないから、争いもない』と考える方もいるかも
しれませんが、経理に詳しい人に聞くと「そうでもないですよ。
お金がなくても、もめる所はもめるんですよ」と言われました。
もめるパターンも、故人の子供たち同志とか、叔母と甥もしくは姪とか。
各家庭によっても、当然ながら千差万別の様ですが
でも一律して、お金関係のトラブルは解決に時間もかかりそうですし
どれも根深そうだなと言う印象は、耳にするたび感じました。

逆に「えっ、こんなトラブルもあるのか!?」という様なモノも。
例えば我が家では、父が亡くなった直後、長年携わってきた
お役所関係の作業の功績に対し、表彰されることになりました。
なんでも役所の偉い方が数名自宅に来て下さるとかで
「スーツを着て待っていてください」と言う連絡が突然入りました。

さぁ大変です。(表彰の時期が葬儀の直前だったので)
とりあえず喪服の準備は出来ていましたが…スーツがないよ!
そんなもの、ふだん着ないよ!
「どうするスーツ!」「喪服じゃダメか!?」なんて感じで
いきなり洋服ダンスを引っ掻き回す騒動が、繰り広げられました。

スーツない.jpg

などなど、多かれ少なかれ非常時には予想外の事がつきものですし
また人間の素の性質も、出やすくなる時だと思います。
なので事前に「こういう時は、トラブルが起こりやすいらしい」と
心構えをしておけば、仮に何かが起こっても多少は落ち着いて
対処できるのでは…と信じたいです。
願わくば、何も起こらない事が一番なんですけど。

最後にトラブルではないけれど、ちょっと驚いたのは
病院の請求書をみた時、ちゃんと「死後の処理代」と言う項目が
組み込まれていた事でしょうか。
その金額や…わりと高い。
介護って最後の最後まで、結構「こんな所にも、お金が要るんだな」
という様な細々したところに、お金がかかった気がしました。
でもそれも、ある程度は仕方ないのかもしれません。

今回はかなり言葉を選んで何度も推敲したので
逆に分かりにくい表現があったかもしれません。
その場合は、すみません。

請求書ビックリ.jpg


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第80話「亡くなって少し落ち着いてから行った事」 [お見送り期]

2016年6月17日~8月中旬
(葬儀が終わって、新盆までの2か月間)

葬儀が終わると、次は四十九日の支度が行われました。
我が家の場合は7月末がそれにあたったので、
終わると立て続けに新盆(土地の風習により8月13日~15日)
を行うと言う、わりと忙しない運びになりました。

葬儀から新盆まで、この間は約2か月。
同時に、事務的な諸々の手続きなども
大体この2か月の内に片付いたように思います。
今回はその間、どのような事を行ったを具体的にお伝えします。

りのとお供え.jpg
(祭壇のお供えをもらっていく姪の図)


その①:弔問客の記録をつける

忙しさの渦中でしたが、それでもなるべく早めに
『弔問客の記録』をつける事は大事だなと思いました。
なぜなら記憶は日が経つにつれて、思っている以上に早く
曖昧になるからです。まして、こういう人の出入りが多い
バタバタしている時は尚更です。

まず葬儀に参列された方や、自宅に来て下さった弔問の方々の
お名前と日時をノートやPCなどに記しました。
お供物や香典を持参して下さった方は、写真を撮ったり、
金額等も記録。またいらした方の人数は
ご本人だけではなく、配偶者やお子供など、同伴者がいた場合も
なるべく正確に記しました。それから父との関係性も。
それらの記録は、誰が読んでもすぐに理解できるよう
最終的に一冊のファイルにまとめました。

もしきちんとまとめる時間が無ければ、メモや紙の余白に
ササッと走り書きするだけでも、当面はいいと思います。
要は書き漏らしたり、忘れる事が無いようにして、後日また
きちんと整理すれば大丈夫かと。

そしてこの一覧を作っておけば、追々調べ物をする際にも、
香典袋や受付に提出して頂いた芳名カードなどを
一枚一枚取り出して調べる手間が省けますし
後年、参列して下さった方に義理などを返す際にも
参考になります。

記録を付ける.jpg


その②:事務手続き色々
次に、以下の行政的な手続きを行いました。

1、銀行口座名義変更手続き(通帳の移行など)
2、国民年金を止める手続き
3、葬儀助成金の申請
4、介護保険証の返却手続き
5、障害者手帳の返却手続き 
6、(病院での)退院に伴う事務手続き

(注;後期高齢者の証明書など、父の『身分証明証』として
使えるものは、思った以上に後々まで頻繁に必要になりました。
なのですぐに返さない方がいいかもしれません。我が家の場合も
役所側に確認したうえで、返却は少し先延ばしにしました)


その③:仏壇を買う
我が家には仏壇がなかったので、仏具屋さんに行き
新しいモノを購入しました。
(注文してから届くまでうちの場合は、約3週間ほどを要しました)
その際、仏壇だけではなく、法要などに関しても
色々と分からない事は、お店の方に相談&確認しながら
行えたので何かと助かりました。

また仏具屋さんは、仏壇の扱い方なども親切に教えてくれました。
例えば、知っているようで意外と知らない「おりんの鳴らし方」など。
これは下から上にすくい上げるように、側面を優しく打つのが
コツだそうです。「よく上から振り下ろしてガンガン強く
鳴らす人がいるけど、あれだと痛みが早くなるからね」
と教えてくれました。
これは家に仏壇がない方でも、どこかに行ってお悔やみ等を
される機会があった際、参考になる助言かなと思いました。

仏壇来る.jpg

ちなみにこの後、一瞬目を離したすきに好奇心旺盛な甥が
鉢の中の灰を「ぷーっ」と吹いて、新品の仏壇を
真っ白な灰被り状態にし、逃走を図った事も併せて記しておきます…。


その④:家系図を作る
我が家の場合、葬儀の際に親族が多く参列しましたが
失礼ながらどの方が、どういう人か、ほとんどわかりませんでした。
と言うのも、父には従兄弟が総勢30名以上いたのですが
そのほとんどが、ほぼ「初めまして」の人だったからです。

これはいけない…と思い立ち、ちょうどいい機会でもあるので
分かる範囲で家系図を作成して、人物関係をきちんと把握して
みる事にしました。
まずは年配の大叔母や、伯父などに聞き取り調査。
その後はお墓に行き、墓石から情報を得ました。
「今は散骨など色々な方法があるが、お墓があると自分のルーツを
遡れるのでありがたいかも」と思いました。
ちなみにうちの場合は、風化していない読み取れる範囲のもので
文政時代とか、元禄時代の物も存在していました。

その後は、役所に行き戸籍を取りました。
役所の窓口の方曰く「ずっと同じ土地に住んでいたら、
戸籍制度が発足した明治初期まで遡って、戸籍を
得ることが出来ますよ」との事。
ちなみにうちは分家筋ですが、直系の子孫なら本家の戸籍を得る事も
可能でした。なので出来る限りの戸籍を出してもらうと…実に
生没年がわかる範囲で、195年ぐらい前の人まで調べることが出来ました。
全体的にざっと7代ぐらい前までは、明確に確認できました。

それ以前の物は「お寺の過去帳を見せてもらうといい」と
役所の方に言われましたが…、菩提寺に出向いて住職に問うと
残念ながら今は色々な問題があるので、仏門界全体で
過去帳を見せない方針になっているそうです。

父の死を通じて、思いがけず自分のルーツを探る旅に出ましたが
逆に言うと、こういう時でないと家系図を作ろう、調べようと言う
気にはならないし、役所やお寺にも相談しにくいので、
いい機会かもしれません。

家系図つくる.jpg


この期間は、そんな感じの日々でした。
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第79話「葬儀前後のご近所協力体制」 [お見送り期]

父が自宅に戻ってから、葬儀までの約1週間。
非常に慌ただしい家族に代わって、ご近所の方が
色々な形で力を貸してくれました。
その中には「これは、ありがたかった!」と思う
機転の利いたモノがいくつかありました。

まず訃報を聞いてすぐに駆け付けてくれたのは、
父を自宅で介護していた時もお世話になった、
近所のYさんでした。
Yさんはご自身も身内を3人介護して看取り、しかも
2か月前に実のお母様を亡くしたばかりでした。
なので機転の利かせ方も動きも、とてもスマートです。
まずご自宅の庭に咲いていた大輪の百合の花を
数本切って、枕花を用意してくれました。

矢野さん協力.jpg

次に父の顔を「入れ歯を入れて、整えた方がいい」と言って
それなりに見られるように、治してくれました。
亡くなった後、病院でも一応「死後の処理」として
それなりに顔を整えてはくれたのですが…それは少し
納得できないものでした。何故かと言うと病院が作る顔は、
あくまでスタッフさん達が見慣れた「病んだ状態の顔」だからです。

父の場合、Yさんが入れ歯を入れただけで、
大分元気な頃の表情に近づきました。
後日、出棺の折には納棺士さんが本格的に整えてくれますが、
その間にも自宅にはたくさんの弔問客がやってきます。
その方々に病んで萎んだ父の顔を晒すのは、あまりにも不憫。
なのでYさんの応急処置はありがたい計らいでした。

また他にも周囲からお借りしたり、頂いたもので
とてもありがたかったのは…
①大きめの花瓶・数個
②お茶菓子を入れる上品な器
③お昼ごはんや晩ごはんの差し入れ でした。

まず花瓶に関しては、連日かなりの量の花束が届いたので
いくつあっても重宝でした。

また遺族はいつ弔問客が訪れるかわからないので
ゆっくり食事を取る時間がありません。
なので昼食には立っていても、すぐに食べられる様な
おにぎりや、お稲荷さんなどがあるとありがたいです。
また夕ご飯の提供もありがたかったです。
夜は比較的時間が取れますが、何せ食事を作る
時間も気力もなく、疲れ果てているので。

食べ物の差し入れは、介護の時と同様に
Yさんや、近所の定食屋さんのKさんが、それぞれ自主的に
請け負って下さいました。
家族はこの時期、絶えず接客に追われ、様々な書類を書き、
葬儀の段取りを進めていたので(しかも仕事をしながら)
さながらフルマラソンをしているかの様な、体力を要していました。
なので食べる物はとても重宝でした。

加藤さん協力.jpg

これ以外にも
④自宅周辺の掃き掃除
⑤自宅周辺の防犯管理
などをYさんや、すぐ裏のご家庭が率先して行って下さり
とても心強かったです。

また別の方からは「『火事場泥棒』と言う言葉もあるから気を付けて。
こういう時は空き巣狙いも多く、変な電話もかかってきやすいよ。
自分の名前も言わずに、葬儀日程だけ聞く手口とか…」と言う
アドバイスも頂きました。確かに慌ただしくて落ち着かない
(しかも寝ていない)遺族にとっては、色々な事が手薄になりがちです。
これは改めてキリリと身が引き締まる助言でした。

更にご近所でこのような協力体制が整っていると、
遺族は間接的にも助かる事が多いです。
例えば「自分の立場では葬儀に参加すべきか、
何かお手伝いをした方が良いのか」と迷う場合は、
隣近所で采配を振るっている方に確認するとスムーズです。
万が一、遺族に直に「手伝った方がいいですか?」
「葬儀に出た方がいいですか?」と聞いたら、それがどんなに
謙虚な申し出であったとしても、遺族は「気にしなくて良いですよ」
としか言えないですし、逆に「お手伝いしますね」と言われても
「もう頼んでいる人がいるから」と、無下には断れないですから。
その点、隣近所が窓口になっていると何かと助かるのです。

余談ですが、うちの場合はこんな事もありました。

父の知り合いの方で、尺八を持っている方が
「葬儀の後、会場で献奏をしたい」と申し出て下さったのです。
献花とか献杯と言う言葉は聞くけれど、演奏を献(ささげる)と
言う事もあるんだなと、この時初めて知りました。
その方は今までも何度か、葬儀会場で遺族に向けて
演奏をされているとか。なので試しに「こんな感じです」と、
我が家に来て一度演奏してくれました。
が、しかし…。

人間、笑ってはいけない場面になると、逆に笑いが出てくるもの。
すごく神妙な場面なのに、なんだか急に
「私どうして今ここで、いきなり尺八の演奏なんて
聞いているのかしら」と、つい冷静に分析したら、
妙に可笑しくなってきました。
ふと見ると、傍らでは弟も笑いを噛み殺しています。
こちらは、うっかり楽譜を見たら「ポペペ、ペポペポ」という様に、
音符ではなく全部カタカナ表記だったらしく、度肝を抜かれた末の
笑いだったようです…。果たしてこのような状態で
式本番、我々は大丈夫なんだろうか!?

尺八献奏.jpg

しかしその心配は杞憂に終わりました。
実際に通夜の席の終盤に、遺族だけを残して行われた献奏は
ものすごくしっとりと落ち着いた、静かな余韻をもたらしました。
葬儀と言うのは、恐らくどこもそうだとは思いますが、
とても機械的でテキパキした、マニュアル通りの流れ作業です。
余韻よりもスムーズな進行に重きを置いた感じです。
それはまぁ仕方がない事。
でもこうした、マニュアル以外の情のこもった演出があると
そこで初めて、ホッと息をついて落ち着ける心持がしました。
「ああ、静かに優しくお見送りをするんだな」と。

家では何であんなに可笑しかったのでしょう。
所変われば…かもしれませんが、不思議なモノです。
なので演奏後は心底感謝を伝えられました。
その方によると、やはり喜ばれるご遺族が多いそうです。

人の情のかけ方や、遺族の支え方には色々なやり方があると
しみじみ感じました。


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第78話「葬儀。最後の別れ」 [お見送り期]

2016年6月15日~16日

父の葬儀の日。
私は朝からせっせと団子を作っていました。
そして夕方、団子(他)を持って斎場へ。

父の花束1.jpg

父は生前よく「オレは一番広い式場で葬式をしたい」と
言っていました。なので遺言通り、一番広い部屋
(140人ぐらい対応)を取ったのですが…。
大きな部屋を取るのは容易いが、果たして参列者が
そんなに来るものなのか?
これで人が来ない時ほど、悲しい事はないんじゃないか
…と、家族としては若干不安を抱きます。

今も現役で仕事をしている人ならともかく、
介護が始まって、更に入院してからは、外の世界との
関係がほとんど途絶えていた父です。世間的にもう
忘れられているんじゃないだろうか…と、思ってしまいます。

けれど、いざ式が始まってみると部屋に入りきれなかった方が
廊下に溢れ、その数はどんどん、どんどん増えていきました。
「ああ、ありがたいなぁ」と、駆けつけて来て下さった方々を見て
心からそう思いました。

葬儀会場にて.jpg

しかし同時に「なぜ、こんなにたくさんの方が?」と
不思議な心持もしました。
病院に居た2年8か月、父はほとんど誰とも会わなかったのに。
社会との関係は、完全に切れてしまったと思っていたのに。

きっと…人が(それなりの年月を)生きてきたと言う事は、
これだけ重みがある事なんだと思います。
と同時に、参列者の方々を見ながら
「やっぱり父の最後の言葉は『頼んだぞ』
だったんじゃないかな」と改めて思っていました。


翌日は告別式が行われました。
「お顔に触れられるのは、これが最後ですよ」との
葬儀社さんの言葉に、そっと父の顔をなでます。

透析をすると体がかゆくなる人が多いので
いつも頭を掻いてあげていたけれど「もうその必要もないのね」と。
そして頬をなでながら「あんなに一生懸命、いつも綺麗に整えて
もらっていたのにね」と思いながら。
そう、あんなに介護したのにね。もう灰になってしまうのね。
私がずっと看てきた日々は、何だったんだろう。
費やしてきた時間は無駄だったんだろうか。
悲しみ以上に、そんな無力感に襲われそうになります。

でも、それが介護なのかもしれない。
強いては、こういう虚しく、儚い気持ちも全部抱えて
それが「生きる」と言うことなのかもしれない。

父にはずっとたくさんの言葉をかけてきました。
目が見えなくても、外の世界の様子がわかる様に。
少しでも気晴らしになり、慰めになるように。
棺のふたが閉じられる直前、父に向かって
最後の言葉をかけました。

「おとうさん、またね。ありがとう」


20160520空の雲.jpg

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