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第49話「療養型病院へ、転院手続きをする」 [入院記]

2014年1月

年が明けてすぐの1月7日、父を受け入れて
くれることになった療養型のJ病院に行き、
家族面談を受けました。

私たちとしては、以前ショートスティを断られた
苦いトラウマがあるので、もし土壇場で断られたら
どうしようと、ハラハラしていたのですが…
面談は、既に父を受け入れる事が決定事項として
進められたため、身構えていたのが無駄と言うか
拍子抜けするほどにスムーズでした。
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J病院の医療連携(事務)担当は、小柄な女性のNさん。
この家族面談の内容としては、各種必要書類
(契約書や、入院証明書など)を手渡されたり、
介護用品(アメニティ)の申込書を用意されたり
入院する際に必要な物などを説明されたりしました。
また同時に、院内も簡単に案内して頂きました。

更に、父が持っている諸々の書類
(たとえば健康保険証とか、障害者手帳など)の
提示もしたのですが、Nさん曰く
「入院後は医療保険証のみ適用されます。
介護保険の類はもう使えなくなります」との事。

そうなんだ。
父が倒れたと同時に申請し、要介護5に認定されたり
ケアマネさんが付いたりと、今まで「介護と言えば介護保険」
と言うぐらい、ずっとつかず離れず携わって来た感があるので
「(当たり前かもしれないけれど)自宅介護が終了したら
もう必要ないんだ」と言う事に、ここで初めて気付かされました。

(後日談ですが、実は介護保険は私の住む自治体では
まだ用途がありました。入院患者はおむつ代を支給して
もらえるのですが、それに介護保険が必要になるのです)

ともかく、そんな感じで転院手続きは無事終了し
その後、転院日も1月16日と決まりました。

しかし、ここJ病院の印象はと言うと…。
「ここは一応東京で、今は平成の世の中だよね?」と
一瞬錯覚してしまうぐらい、昔ながらの風情を保っていました。
子供の頃は、こう言う病院がたくさんあったと言うか
まるで地方の山里の、しかも昭和の病院にタイムスリップ
したかの様な、そんな時空と空間を超えた雰囲気が
濃厚に漂っていました。
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実は父が救急車で運び込まれた、今いる治療型病院は
3年ほど前に新築されたばかりの、都内有数の大病院。
ものすごく壮大な造りの上に、高台に位置していたので
そびえ立つように立派でした。
内装もまるでホテルの様に綺麗で、広々としていて
もちろん窓からの景観も最高です。

スタッフさん達にも活気があり、システムも近代的。
レストランや、カフェや、コンビニも全て配置してあると言う
まさに最先端な環境だったので、余計にギャップを感じました。
と言うか、ギャップありすぎ。
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(写真は大病院最上階のラウンジからの眺め)

「ここが父の最後の病院になるのかな。
ここに父を預けてしまうのか」
そう思うと失礼ながら、気持ちが塞ぎ、帰宅の足も
自然と重くなっていきました。(慣れると割と『住めば都』で
アットホームな楽しい面もありましたが、それはまた後の話)

更に転院手続きについて。
年明けに急きょ新しくI先生と言う女性の方が、担当医に
なって下さいました。この方は見た感じ、ものすごくクレバーで
恐らくお医者様としての地位も高そうな人でした。
(常にアシスタント的な人が、傍らに控えていたし)
I先生は非常にテキパキと、父の症状の説明をして
下さいましたが、それによると術後は経過も良好で、
もうどこも悪い数値がないとの事。
「なので、いつでも転院できます」と。

今度の先生は頼りがいがあるなと思い、安心したのですが
いざ転院手続きと言う段階になった時、先生がおもむろに
「当日は病院の救急車を用意させますね」と、言い出しました。

さすがに医療に関しては素人の私でも
「えっ、それは無理でしょう!?」と、突っ込みたくなった。
念の為、各病院の医療連携担当のIさんと、Nさんにも伝えたら
お二人とも「えー、うそ!?」とか、「おかしいですねぇ」と
口を揃えて言いました。
そしてすぐに、介護タクシー会社の一覧表を手渡して
「こちらに連絡した方が良いですよ」と、言ってくれました。
(ちなみに後日来てくれた、介護タクシーの運転手さんさえも
「それはおかしい」と言いました)

4年前に乗った民間救急車と言い、この件と言い、
病院の先生方は、もしかしたら治療以外の案件
(他の病院への転院など、病院の外の事)には
それほど詳しくないのかなと、思わされました。
治療以外の先生方の提案を、鵜呑みにすると怖いかも?
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そして刻一刻と、転院日は近づいていきました。
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第48話「療養型病院をさがすのは至難の業」 [入院記]

2013年12月後半

父の手術が無事に終わり、ホッとしたのも束の間。
今の病院は「治療型」なので、傷が完治し治療が済んだら
すぐに退院しなくてはいけません。

しかし片足を失った父は、もう介助者が支えても
立ち上がる事は不可能です。
そうなると、車いすにも乗れません。
なので自宅から透析の病院や、デイサービスに行くことが
不可能になるし、トイレの介助も出来ません。
また入院中に経管栄養を始めた為、自宅で食事を摂る事も
不可能になりました。

仮に寝たきりの状態の人を、自宅で看られるか?
病院では父をストレッチャーに移動させるのに
女性の看護師さんが4人がかりで持ち上げていました。
家では、常時それだけの手がありません。
しかも母は介護によって腰を痛めたままです。
家に連れ帰ったとしても、今度は家族が共倒れになります。

その上、入院した時点でデイサービスや透析の病院に
連絡をして、利用を一時止めてもらっていたのですが
デイサービスが「またお待ちしていますね」と、温かく
言って下さったのに対し、残念ながら透析病院の返答は
あまり友好的な物ではありませんでした。
電話を切った母は「もうあの病院には戻したくない。
迷惑がられて可哀想だ」と、しきりに気にかけていました。
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なので物理的にも、心境的にも、この時点が
自宅介護の限界でした。しかしそうなると、
今度は急いで転院先を見つけないといけません。
通常の病院は患者の怪我や病気を治して、社会に戻す
「治療型」ですが、長期入院を目的とした父の様な
患者の場合は「療養型」の病院に入る事になります。
しかしこの病院を探して、空きを見つけるまでが
なかなか難しいのが現状です。

そこで5月頃に一度相談をしに行った、病院内の
「医療連携室」を再び訪ねました。
ここは文字通り、各病院への連携作業を主として
行っている部署です。相談の末、父に合った病院探しや、
空き状況を調べたり、受け入れの手続きなども全て
ここが行ってくれました。今回担当になって下さったのは、
Iさんと言うベテランの女性の方。
私たちの話を聞いて、とても的確に様々な段取りを
整えてくださいました。
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病院探しは、例えばお金があったり、患者に特定の
持病がない場合は、選択肢も多く、探しやすいのですが
うちの場合は、まず「お金がない」。
次に「人工透析が受けられる設備がある」病院を希望し
更に「できるだけ家の周辺(近場)で」と、色々な条件下で
探した結果、選択肢は非常に限られてしまいました。

Iさんが言うには、父を受け入れてくれそうな病院は
私たちが住んでいる街では、たった1軒しかないとの事。
そこは5月に相談した際も進められた病院でしたが
「空きを待つのは1~2か月かかる」と言われました。
それでも早い方で、他の病院は「年単位で待つ」事も。
(なぜサイクルが早いかと言うと、それだけその病院には
重篤な患者さんが多いから、と言うのが理由でした)

また隣町にも1件あるが、そこは「最長で3か月だけ」しか
居られないと言われました。(療養型の場合、ほとんどの
病院が3か月間のみの受け入れなのです)

取りあえず、地元の病院を第一希望に、隣町の病院を
第二希望で申請しました。
しかしすぐに隣町の病院からは「ベッドに空きがない」と、
断りの連絡が入りました。

またそれ以外の病院も探しましたが、他はどこもかなり遠方でした。
「○○駅まで電車で行って、更にそこからバスに乗って、山の方に…」と
言った感じです。
まずは受け入れてもらう事が大前提だけど、でもあまりにも
遠い所だと、今度は家族が頻繁に通えません。
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まさに祈る思いでの病院探しでしたが、幸い第一希望だった
地元の病院で急にベッドに空きが出たため、受け入れて
もらえる事になりました。しかも期限付きではなく、終身で。
これは家族にとって、非常にありがたい事でした。

後になって、少し落ち着いてから周囲を見渡すと
この病院選びでは、なかなか大変な思いをしている
ご家族が多い事がわかりました。
ある方は、隣の県のさらに外れの方の病院しか空きがなく
そこに親を預けているけれど、頻繁には見舞いに行けないので
近くの親戚に週1で面会をお願いしているとか。
「でもそれも、タダでとはいかないし大変です。
お宅は近場で見つかって良かったけれど、地元の
議員さんとかに相談したんですか?」と、そんな事も聞かれました。
(もちろん相談は一切しておらず、病院任せだったのですが)
それぐらい、近場で終身の病院を探すのは難しいのかもしれない。
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後日、実際にその病院に預けてからも、他の患者さんのご家族が
「3か月ごとに色々な病院を転々として、ようやくここに落ち着いた。
自宅からバスを乗り継いで、見舞いに来ている」とか
「自宅の周辺で受け入れ先がなくて、自転車と、電車と、バスを
乗り継いでここまで来ている」と、言う様な話も耳にしました。

なにはともあれ、近場で受け入れてくれる所が見つかって
家族としては本当に、一安心です。
年内はとりあえず今の病院にそのままいて、年明けすぐに
転院する事が決まりました。
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第47話「父、右足の切断手術を行う」 [入院記]

2013年12月13日(金)

年末も迫ってきた12月の半ば、父は右足を
ひざ下から切断する手術を受けました。

当初、壊疽(えそ)を起こした足の指は、入院と同時に
真っ赤に炎症していましたが、その翌日ぐらいから
今度は木炭の様に真っ黒に炭化し、一目見て
「人の体として全く機能していない」事が、わかる状態になりました。

原因は右足ひざ下の大動脈が詰まったため。
なのでバイパスを入れて血流を良くするか、切断するかの
選択が家族に迫られました。
前者はかかと部分は残るけれど、4~5時間の大手術。
(ちなみに担当は血管外科)
後者はひざ下から足がなくなるけれど、再びほかの指が
壊疽を起こす可能性もなくなり、手術時間も
2~3時間で済むとの事。
(担当は形成外科。外科にも色々あるのですね)

けれどこの時期、父の様態はかなり衰弱していて
「当面の問題は、手術を無事に乗り越えられるかどうか」
と言う事にありました。なので家族としては、迷わず
負担が少ない切断手術を選びました。

担当医になった形成外科の先生曰く
「これは延命ではなく、助命の為の手術です」と。
そこまで深刻な状況になっていました。
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外科医の先生は(慣れているせいか?)割とストレートな
物言いをしましたが、体の一部を切断して失うと言うのは
本人だけではなく、周囲も非常にナーバスになる出来事です。
内科の先生や看護婦さん達は「手術」と言う言葉を避けて
「イベント」と言い換えて、本人に伝えていたし、
また大事な話は絶対に枕元でしないよう、配慮して下さいました。

しかしそれだけに、本人にはいつどういう風に伝えたらいいのか。
母方の叔父と共に、病院のロビーで悩んでいたら
ちょうどそこに、父方の伯父と叔母(要するに父の兄妹)が
やって来て、急遽「おじおば会議」が開かれる事になりました。

私が「それでどう伝えるのか」と問うと、間髪入れずに
叔母が「告知は前日!」と言い切りました。
「あまり早くから伝えて、いたずらに不安を長引かせてはいけない!
また伝える時は切る、落とす、という言葉を使わないこと!!」と
ビシッと宣言しました。
叔母、たまにしか登場しないのに、すごい決断力だわ。
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けれどもそんな強気の叔母は、いざ父と対面すると
持参した「とげぬき地蔵」のお守りで、父の体をさすりながら
「悪い所がなくなるように」と、涙ながらにお祈りしてくれました。
やっぱり血が繋がった兄弟は違うね…と、私も思わずホロリ。

でもその後、帰宅途中に叔母は「年末に葬式とかは困るよね」と
再び本音をズバッと。
うん、やっぱり色々な意味で、血が繋がった兄弟は違うわ。
誰もが思っていても、絶対言えななかったセリフを
直球ストレートですよ。

かくして13日の金曜日、午前中から手術が行われました。
家族待合室は、手術室の近くのスペース。
そこには大型のテレビと自動販売機、そして各手術の
状況を映し出すモニターが備わっていました。

個人情報もあるので、詳細は表示されないものの
そのモニターには患者の年齢や、疾患部位(外科とか内科とか)
現在の状況(麻酔中とか、手術中とか)、そして手術の
終了時間などが、刻々と様相を変えて映し出されていました。
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ここは大病院なだけに、一日でかなり沢山の方が
手術を行う様です。体の悪い部位を直して、
再び元気に社会に帰す、そう言う大事な事が日々
繰り返されている現場なんだな、ここは。
と、今まで手術はおろか、入院もしたことが無い私としては
初めて接する尊い世界でした。

長時間の手術を要する患者さんの家族には、
個室もあてがわれますが、それ以外の家族は
一同長椅子に座って終わるのを待ちます。
でも病院のどこに(レストランとか、コンビニとか、中庭などに)
移動しても大丈夫なように、専用のPHSも持たせてもらえました。
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正直言って、このスペースは緊張と静寂で空気が重い。
立ち会った母と叔父と、父方の伯父、そして私の4人は
PHSを持って、外が見えるロビーへ移動する事にしました。
そこでお茶を飲みながら、今後の事を相談する内に
3時間程が経ち(実質の手術時間は2時間ほど。
麻酔などの関係で所要時間は前後します)
手術は無事終了しました。

結局、糖尿病によって
父は視力を失い、人工透析を受け、そこから脳梗塞を多発し
更には壊疽を起こして右足を半分喪う…と言う、全ての
合併症を招きました。
糖尿病は、それ自体は怖い病気ではないけれど
それが引き起こすものの影響は大きいです。
そして本人だけが苦しむのならまだしも、家族にも
介護と言う形で重くのしかかってきます。

よく「好きな物を我慢なんてできないから、好きなだけ食べて
ポックリ逝くんだ」と冗談を言う患者さんを目にするけれど
ポックリなんて首尾よく逝けないから、厄介です。この病気は。
でも恐らく日ごろからの節制によって、症状はだいぶ
違ってくるとも思います。

手術が無事成功した事により、父は生命の危機を脱しました。
術後の経過も良好で、熱は次第に収まり、傷口も
徐々に塞がりました。ひとまずは安心です。

ですが、この状態ではもう自宅には戻れません。
なので手術が成功したこの日から、今度は
「転院先探し」が本格的に始まる事になりました。
果たしてこの状態の父を、近場で受け入れてくれる
病院はあるのか。ない場合はどうしたら良いのか…。
家族の不安はまだ続きました。
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第46話「足の指、壊疽(えそ)を起こす」 [入院記]

2013年11月3日(日)

緊急入院から一夜明けて、再び病院に行くと
父の診断は「尿道感染の疑いあり。この病院で
2週間の入院を要する」と、改まっていました。

取りあえず転院もせずに、2週間は預かってもらえると
わかって、家族はホッと胸をなでおろしました。
しかし、すぐに看護婦さんから「足の指は前からこうでしたか?」
と尋ねられ、めくられた布団の中を見てみると
父の右足のひとさし指が、真っ赤に染まっていました。

それは例えるならケロイドのような、えぐれているような。
衝撃的な状態でした。
確かに1か月ほど前から「黒ずんでいる」と指摘され
今後血管外科へ診察の予約も入れていたのですが、
昨日家を出るまでは、全く異常がなかったのに。
入院した途端に炎症が始まりました。

翌日、ERから一般病棟に移された父は
「足の指が3本ほど壊疽(えそ)を起こしています。
そこを感染源として、高熱が出ている状態かもしれません」と
正式に診断が下されました。
担当医は救急車で運ばれた時にお世話になった
(なぜかテンパっていた)若い男のY先生です。

先生は「今日明日、どうなるわけではありませんが、
いつ様態が変化しても、おかしくはない状態です。
いざという時の為に延命は希望されますか?」と言いました。
えっ、そんなに悪い様態なの!?
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いきなり危機的な状況に陥った父に、
家族も親族も大慌てです。
父はすぐさま色々な管につながれ、高熱のために
ぐったりとし、食欲もない様子です。

入院当初はとりあえず点滴で栄養を取り、それ以降は
看護婦さん達が懸命に、口から栄養を取らせようと
努力してくださいましたが、それも叶わず、
結局入院してから約2週間後の11月末に
鼻からチューブで液状の栄養剤を直に胃に届ける
経管栄養が行われることになりました。
(栄養剤は、ちょっと森〇のマミ〇に似た色合いです。
ちなみに母方の叔母は、素で「味噌汁か」と思っていたようですが)
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とりあえず父は、抗生物質を投与されたお蔭で
感染の進行は一時的に止まったものの
大元の原因を断っていないため、容態は一向に
好転しませんでした。
我々家族も、いつ急変するかもしれない事態を前に
落ち着かない心境のまま、毎日病院に通う日々です。

ちなみに病室では、乾燥を防ぐために肌に薬や乳液を塗ったり
レンタル衣服の申し込みや、更新手続きなどを行ったり
先生の説明を聞く…などの介助をしていました。
更にこの病院では、おむつと(体の下に敷く)バスタオルが
持ち込み可だったため、それらを切らさない様に
自宅から頻繁に届けたりもしました。

担当医のY先生は、まだ年が若いせいか
少々説明が足りない所もあり、家族が不安になる場面も
色々とありましたが、幸いチーフ看護師のHさんが
とてもしっかりした方だったので、この人の存在に
大いに助けられました。

Hさんはとてもテキパキした働きぶりで、いつも明るく朗らか。
そして家に居た頃の父の状況を、家族から丁寧に聞き出して
患者に合わせた看護をしようと、色々試みてくださいました。
「これほどの状態の患者さんを、ご自宅で看られていたなんて。
本当に頭が下がります」と、言って下さったHさん。
ともすれば気持ちが塞ぎがちなこの時期に、彼女に出会えた事は
家族にとって一筋の明るい支えになりました。
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その後、先生方の判断により、父は右足の
壊疽(えそ)部分の手術を行う事が決まりました。
ちなみに正規の担当医であるY先生は、腎臓内科の専門です。
しかし手術の際の担当は外科の先生になるので、当然ながら
一時的に担当医が変わるのですが…
このY先生、いまいち言葉が足りません。

本来ならY先生が、音頭を取って進めるべき事が曖昧になっていた。
そのため外科医と、看護師と、家族の間で上手く連携が取れない
状態になり「それで手術の説明(もしくは同意)は、いつになるんだ?」と
みんながみんな、相手の出方を待つはめに。
その結果なんと10日間も、父は保留状態で放置されていました。
さすがにおかしいと勘付いた看護師のHさんが
「Y先生からの説明を受けましたか?」と、家族に確認した事で
ようやく再び状況が動きだしました。

更にこのY先生、年末になると患者や家族に何も告げないまま
いきなり移動になり、気が付いたら担当医が変わっておりました。
その頃になると、さすがに「この先生はおかしいかも」と
家族も思い、Hさんに「Y先生って腎臓内科の専門医…ですよね?」
と確認すると、Hさんはものすごーく言葉を選びながら
「そうですね。腎臓内科の先生…に、なりたい先生です」と
教えてくれました。
なんじゃそりゃ。

要はまだまだ新人さんで、各部署を移動しながら
経験を積んでいる段階の方なんだとか。
そして「年末は病院内はどこの部署でも移動が
多い時期なんですよ」と、担当が急に変わった理由も
Hさんはさり気なく教えてくださいました。
なるほど、そうでしたか。

救急車で運び込まれた時から回想して、色々な事が
納得できました。でもいくら忙しいとはいえ、ひと言ぐらい
先生から挨拶と言うか、説明があってもいい気がしますが。

病院では、色々な先生にあたるものだなと思いました。
必ずしも担当医がベテランとか、専門医とは限らないし
逆に新人さんでも、良い先生もいるだろうし。
万が一「おかしい」とか「何か足りない」と感じたら、
先生以外でも周囲の色々な人(看護師さんとか、
医療連携室の方とか、スタッフさん達)に
出来る範囲で確認するのも、ありだなと痛感しました。

そして家族や身内は、どんな時でも極力
焦らず、冷静に。
今回のような緊急入院(非常事態下)では
どうしてもテンパってしまう人もいますから。
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そんな内科での、てんやわんやをよそに
刻一刻と父の手術日は迫っていました。
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第19話「父、再び入院。内科で原因究明する」 [入院記]

2011年7月

日本中が震災の影響で、また家族中が入院や病気で
バタバタしている状態が収まらない中、
父が今度は40度近い高熱を出して、救急車で運ばれました。

原因は「何かの菌が体に入って炎症をおこした」
らしいのですが、入院先で担当になったA先生が
ベッドに横たわる父を見て、しみじみと
「この状態の、こんなに体が大きい患者さんを
家庭で看るのは無理ですね」と言いました。
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偶然病院に見舞いに来ていた、父の兄にあたる伯父夫妻も同席し
私と母の4人で、先生から「今後もし状態が戻らない様であれば
病院で寝たきりの状態になります」と言う、衝撃的な
説明を受けました。

しかし…今まで何度もこの総合病院に運び込まれては
お世話になっていた父ですが、そのどれもが
脳梗塞だったので「脳の専門病棟へ」と言うルートでした。
当然、担当医も脳みそ(もしくは血管)の状態しか看ていません。
でも今回は症状的に、初めて内科へ運ばれたのです。

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そして腎臓内科が専門だと言うA先生は、改めて父の病歴を見て
「こんなに短期間に、脳こうそくが起こるのはおかしいですね。
僕が体と脳の両面から、いろいろと調べてみます!」と
父の徹底調査に乗り出してくれました。

その結果、栄養バランスの問題や、飲んでいる薬の種類、
またインスリンの量など、色々な事が根本から
改善されることになりました。
すると父は徐々に元気になり…。

「ずっと病院暮らし」との宣言を受けてから、奇跡の復活へ。
10日後に無事退院し、再び自宅介護再開と言う
運びになりました。

この時、A先生が治療環境を根本的に
改善してくださったお蔭で、その後もしばらくの間
父は大病する事なく、穏やかに日々を送る事が出来ました。
その上、A先生は「僕がこれからは主治医になりますね。
何かあったらご連絡ください」と、とても頼もしい言葉まで
かけて下さり、本当に心強くありがたく思いました。
(しかし2年後、別件で病院に行ったらA先生は
すでに他の病院に移動されていました。転勤のある大病院で
主治医を得るのは、なかなか難しい事なのかもしれません)
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第15話「父の入院。平穏な日々」 [入院記]

2010年8月30日~9月4日

自宅介護が始まって、2か月後のある真夏日。
透析先の病院で、父は顔と右手が麻痺しはじめた為
そのまま救急車で病院へ運ばれました。

連絡を受けた私と弟が、車で総合病院に駆けつけました。
約3時間にわたって、CTと、MRIと、レントゲンを撮り、採血して
更には入院手続きをし、審査の結果を聞いて…と、バタバタした後
「今回は左右両方の脳に、いくつか小さな脳梗塞が発生した」
と言う診断を受けました。

とは言え、それほど症状は重くなく
父も普通に車いすに座って、話もできるし
意識もしっかりしているし、体調も悪くない様子です。
食欲もあるみたいだから、問題ないと言えば問題ない。

ただ今回担当になった先生は
半年の内に、こう何度も脳梗塞になる事
そして左右のどちらの脳にも梗塞が見られる事を受けて
「もしかしたら、どこかに血栓があるのかも」と疑っていました。

今までは脳の先端が詰まった脳梗塞だったから
日常生活で水分を取れないために、そうなるのだろうと判断され
実際春先に入院した時に、調べてもらった際も
首や心臓に血栓はないから、大きく詰まる状態ではないと
言われてはいましたが…。

先生曰く
「首や心臓は、良く血栓が起こる場所だから調べたのでしょう。
でもそれ以外の場所、例えば大動脈などに血栓があるのかも。
体のどこかにコレステロールだとか、そういう血管にゴミが
詰まった部分がある可能性が高いから、今回は
1週間ほど入院して、徹底的に審査してみましょう」と
提案されました。

確かに元を正さないと、これから何度も梗塞は起きるだろうし
本人もどんどん弱ってしまいます。
なので今回の入院騒動は、そういう事を調べてもらう
貴重な機会になって良かったのかな…と思えました。

同時に、父が退院してからちょうど2ヶ月。
この間、暑い日が続き、不慣れな生活が始まったせいもあって
そろそろ母や私など、共に生活する家族の体調やメンタル面も
疲弊し始めた頃でした。

少しの間だけど、この入院で介護する側が休める事にもなって
父には悪いけれど「助かった」と思いました。
家に病人がいないだけで、体力的にも精神的にも
すごく負担は軽くなるのです。夜もぐっすり眠れるし。
父の体を支える為に、余計な体力を使わずに済むし。

逆に言うと、介護している家族って
それだけ日々負担を強いられている、と言えます。
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今回の場合は、入院した本人がある程度元気だったから
家族にも気持ちの余裕があったのですが。
実際に病院での父は「ご飯が少ない」と、ぼやくぐらい元気。

「昨日の朝はパン一枚と小さい牛乳で、昼は肉じゃがだけだ」とか
「ここの病院の一般の人向けレストランは、値段は安めだし、
味もそこそこだ。お父さんは前にハンバーグとか、うなどんを食べた。
ウナギは小さいけどな。連れて来てくれたヘルパーの人は遠慮してか
いつも(安めの)日替わり弁当や、オムライスだったな」とか
お見舞いに行くと、ひたすら食べ物の話を語っていました。
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ちなみに私は、春からこの病院へは父の為に
何度も往復しているけれど、それどころじゃなくて
一度もレストランになんて入った事がありません。
そもそも病人がそんな高カロリーな物を、なぜ食す?
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でも食事に対する欲があるのは、元気な証拠です。
かくして父は1週間ほど入院しました。
心臓の辺りに色々な管を取りつけて、24時間
心臓の動きを見る検査をし、その結果「どこも問題無し」の
判断を受けて、9月初めに自宅に戻ってきたのでした。
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第3話「介護はある日突然に」 [入院記]

2010年3月30日

退院した直後に、69歳の誕生日を迎えた父が
お祝いの席でしみじみと「いつの間にか69になったんだな。
早いもんだな」とつぶやいた後、母に向かって
「オレはあまり長生きできないかもしれないな」と
言い出しました。
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それは自分の体調を顧みての感想か、それともこの先を
見通しての予言だったのか…。
それからわずか2日後の夜、それまで饒舌に家族と話をしていた父が
突然「なんだか…言葉が上手く出てこない」と言い出しました。
「もう寝る」と、立ち上がったはいいけれど、今度は
「足に全然力が入らない」と、不審に思いつつ
フラフラと寝室へ。
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「先日退院したばかりで、また脳梗塞?まさかね」と
母と顔を見合わせながらも
「万が一そうだとしたら、早めに救急車を呼ぶべきだろうか?」
「しかし本人は疲れているし、明日の朝まで様子を見た方がいいかも」と
散々悩み…結局父の「救急車は呼ばなくていい」の一言で
その日はそのまま休むことに。

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しかし翌朝、父の様子は相変わらずおかしいまま。
「これはまずい」と言う事で、救急車を呼ぶことになりました。
いつもは仕事があって動けない母に代わって
私が付き添って、病院に行くのだけど、今回は私にも
仕事が入っていた為、義理の妹に救急車への同乗を頼みました。
そして出勤準備をしていたら…。

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ちょうど家を出る時間帯に、救急隊の皆さんが到着。
気が付いたら我が家の狭い出入り口に、人や担架が溢れています。
その上、体をうまく動かせない父の移動に思いの外
手こずっている様子。
あれ、もしかしたら私、家から出られない?

しかも、そんな物理的な事情に加えて、周囲は既に
かなり緊迫した雰囲気です。
「じゃ、私はちょっと仕事に行って来ますから」
なんて、とても言える状況じゃない!…と言うか、絶対言えない!

「しまった!!出るに出られない!」と気付いた時はすでに遅し。
仕方なく仕事先に電話をし、10分遅れでの到着を許可してもらいました。

なので今回得たの教訓は
「救急車を呼ぶ時は(到着)時間帯を考えよう」
「出入り口は確保しよう」
と言う事。

でもまだこの時点では、倒れた本人はじめ、家族の誰もが
あまり深刻に、この症状を捉えていませんでした。
(救急車を呼んだのに、平然と仕事に行こうとする辺り
余裕と言うか、油断を感じますものね)

でも実はこれが、長きにわたる大変な介護生活の幕開けでした。
救急隊到着.jpg
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第2話「前兆はレクイエムと共に」 [入院記]

2010年3月22日(月)

第一報は春の気配が感じられる陽気の日、
父が通っている人工透析の病院から。
「様態がおかしいので救急車に乗せます」と
電話が入りました。
どうやら脳梗塞のよう。

自宅から急いで病院に駆け付けると
「SCU( stroke care unit 脳卒中集中治療室)に
行ってください」と促されます。
なんとなく物々しい名称の病室です。
こわごわ足を踏み入れて、本人に会うと…。

父SCU.jpg
父は思いの外、元気でした。
そしてドラマの「ドクター・コトー」に似た若い先生が、担当医として
色々とレントゲンを見ながら症状を説明してくれました。
でも実は父が脳梗塞を患うのはこれが4回目。
家族も変な意味で慣れてきていました。

コトー先生.jpg
先生の説明によると、脳梗塞にはいくつかのパターンがあるらしく
例えば心臓や首などから、大きな血栓が剥がれて
それが脳幹部分に詰まると、生命を脅かす危険もあるけれど
(仮に呼吸機能をつかさどる部位に詰まったら、そこが麻痺し
呼吸が出来なくなるなど)
父のように透析をしていて、日頃から水分制限がある人の場合は
血栓に関係なく、脳の末端部分の血管が詰まるタイプの
脳梗塞を起こすそうです。

その場合、症状もそれほど酷くはなく
例えば少しろれつが回らなかったり、歩きにくかったりする程度。
大事を取って数日入院するけれど、結局治しようがないので
『家に居た方が、リハビリにもなって良かろう』と言う事になり
父も毎回早々に退院しては自宅に戻って…を
繰り返していました。

一応かかりつけの病院で、血液をサラサラにする薬を
処方されていて、それを飲んではいるのですが
それでも防ぎようがないし、仮に発病したところで
脳梗塞の症状がこの程度の軽い物なら
「まぁ仕方ないね」と言う感じで、本人も周囲も受け止めていました。
今までは。

この時もそんな軽い気持ちでいたけれど…
思えばこれが、今後数年にわたる介護生活の前兆でした。


2010年3月24日(水)

入院から二日後、温和なドクター・コトー(似の)先生の元
適切な処置を受けた父が、退院の運びとなりました。
良かった…と言うべきか、治しようがないから仕方ない
と言うべきか。
とにかく本人がいつも通り元気なので、良しとします。
ありがとう、コトー(似)先生。
コトー先生説明.jpg

だけどなぜか集中治療室にはBGMとして
レクイエム(鎮魂歌)が静かに、しかし力強く流れていました。
もちろん故意ではなく、有線放送から勝手に流れて来ているのですが
ここではさすがに、臨場感が溢れて過ぎているので
やめた方がいいのでは…と言う気がしました。
ええ、本当に。なぜここで流すのか?

しかし思い返すと、このあと5年近くに及ぶ介護生活は
いつもちょっとした『なぜここで、こんな事が!?』の
繰り返しでした。
このレクイエムはまさに、そんな悲喜こもごもの生活を
見事に表した序曲の様でした。
レクイエム.jpg
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